U絵・本文イラスト●ヤスダスズヒト...畳ルーム図解●メメ編集●児玉拓也 ---------------------[End of Page 1]--------------------- プロローグ告白と謎《なぞ》の落下物体 世田谷区《せたかやく》の込み入った路地裏を、.人の小学生が歩いていた。 ランドセルの代わりに布でできた大きなカバンを背負い、小さな歩幅でチョコチョコと家路を急いでいる。頭の上で二つに結んだ髪の毛が、歩く度に携帯電話のアンテナみたいに揺れている。遠くから見ていると小動物のようにも見えなくもない。 ミッション系の学校にありそうな、カッチリとした感じの白いワンピースを着ているが、少女のものは制服ではない。これは、彼女自身が選んだ洋服である。 カバンにつけたキーホルダーがぶつかり合い、カチャカチャと音を立てている。ちなみに、このキーホルダーは彼女の兄が中学校の修学旅行で買ってきたお上産《みやげ》である。 暗闇《くらやみ》で光るガイコツのキーホルダー。 年頃《ヒしごろ》の少女がそんなものを貰《もら》って嬉《うれ》しいかどうかは不明だが、彼女は嫌な顔ひとつせず受け取ると、黙《だま》ってカバンにつけたそうだ。 「おい、神山《かみやま》っ」 何者かが少女の名前を呼ぶ声がする。ゆっくりと振り返ると、細い足を傷だらけにした少年が立っていた。 ---------------------[End of Page 2]--------------------- 夕陽《ゆうひ》に照らされているせいか、それとも違うのか、彼の顔はひどく赤い。 「なに?」 神山メメは表情を変えずに少年に言った。確か彼は、同じクラスの男子のはずだ。しかし、彼の家はこの道とは逆方向だったように思う。なにかあったのだろうか。 「俺さ、ずっと前から言おうと思ってたことがあるんだ」 少年はボロボロになったサッカーシューズを履いていた。 「なに?」 「俺さ、ずっと前からさ……」 彼は勢いよく鼻をすする。それから手をモジモジと動かす。さらに空を見上げて「あーもーうぐぐぐぐ」と眩《つふや》く。言いたいのに言いたくない。言いたくないけど言いたい。小学生ならではの多感な心が、小さな体の中で暴れてる。 「俺は、俺は、ずっと前から神山のことが好きだったんだ!」 言った。 もうお気づきだろう。つまりこれは、告白というやつである..好きな人に、自分の気持ちを伝え、相手がやぶさかでなければお付き合いが始まり、デートをしたりキッスをしたり、海に向かって「お前が好きだi!」「あたしもー!」「うふふー!」「あははー!」「明日はドライブだIH」「あさってはホームランねー−”」と叫《さけ》んだりする、例のあれだ。 ---------------------[End of Page 3]--------------------- 「…………」 「…………」 少年はインフルエンザなんじゃないかというぐらいに顔を赤くし、肩で息をしている。 よほど勇気を出して告白したのだろう。瞳《ひとみ》にはうっすらと涙さえ滲《にじ》んでいるではないか。 「なに?」 しかし、メメの返事はたったそれだけだった。 あなたはわたしのことが好き。それで、なにつ・ 「いや……その、なにって言われても」 予想外の返答に少年は狼狽《ろうばい》し、レディーの前だというのにズボンに手を突っ込んで股間《ニかん》をボリボリとかき始めた。さすが小学生。いや、小学生が全《すべ》てズボンに手を突っ込んで股間をボリボリかくとはかぎらないですけども。 「だから、俺《おれ》は、神山《かみやま》のことが、好きなんだよ」 彼はもう一度同じ言葉を繰り返す。今度は恥ずかしさよりも、もどかしさが声に滲み出ている。俺は、お前の答えを待ってるんだからな。 「……なに?」 ・しかししかし。メメはさきほどの返答を同じように繰り返すだけだった。 少年の顔に焦りが見え始める。もしかしてあれか、俺は告白というのを間違って解釈し ---------------------[End of Page 4]--------------------- ていたのだろうか。告白って、「好き」って言えばそれでお終《しま》いじゃないのか。もっと他《ほか》にすることがあるのか。抱きしめたりした方がいいのだろうか。それとも、プレゼントのひとつも差し出さないと告白にならないのだろうか。 彼は焦ってポケットの中を探し始める。だが、小さなジーンズのポケットに入っていたのは、ガリガリくんの当たりの棒だけだった。 「ごめん、やっぱ今のなし」 「うん」 「じゃあなi!」 少年は振り返ると、サッカークラブで鍛《きた》えた俊足《しゆんそく》で住宅街を駆け抜けて行った。 メメは彼の姿が見えなくなるまで直立不動の姿勢で待っていたが、遠くの角を曲がったのを確認すると、カバンから小さなメモ帳を取り出した。メモ帳には汚い文字で「メメのノートであります。なくしちゃイヤンイヤン」と書いてある。 表紙を開くと、中には細かく丁寧な文字で日記のようなものが記してあった。どうやら、表紙の文字は彼女が書いたものではないようだ。 「告白回数二十五回……」 そう言いながら、メメはロケットペンシルで「正」の文字をノートに綴《クメ》る。 「あ。間違えた。……ねりけし」 ---------------------[End of Page 5]--------------------- におい長の入ったカンペンの中からねりけしを取り出し、ねりねりけしけしと文字に擦《こず》りつける.、 「消えない……」 などと文句を言いながらも、ねりねりけしけし。消えるというより、なんとか薄くなった、という感じで文字の修正は終わった。 その時である、メメの目の前に、もの凄《−こ》い勢いで.巨大な物体が落ちてきた.、大きな鉄球がアスファルトに直撃したような轟音《こ・つおん》。 彼女のスカートが一瞬フワッと浮くほどの衝撃と共に、天からなにかが落下してきたのだ。 「はあああああP…」 普段は冷静な彼女だが、突然のハプニングにたまらず大声を出してしまった。慌《あわ》てて電柱の裏に隠れると、その正体不明の物体を観察する。 「なに?なに?」 見れば、アスファルトには大きな亀裂が入っている。よほど重い物体のようだ。空を見上げてもなにもおかしいところはない。夕暮れの空に飛行機雲が泳ぎ、カラスがカァカァと飛んでいるだけである。 メメはカバンから縦笛の入った袋を取り出し、謎《なぞ》の物体に近づくと、それをチョイチョ ---------------------[End of Page 6]--------------------- イと突いた。しかし反応はない。どうやら生物ではないらしい。となると、飛行機の部品が事故かなにかで落ちてきたのかもしれない。 「黒い……丸い……」 見たままの感想を素直に眩《つぶや》く少女。確かにそれは黒くて丸い、ボーリング玉のような物体だった。しかしよく見ると、まったくのマンマルをしているわけではない。上の部分が涙の雫《しずく》のように尖《とが》っていて、タマネギにも似た形をしている。 「なに。これ」 縦笛の先で叩《たた》くと「ゴッゴッゴッ」と鈍い音がした。その響きからして金属でもないらしい。土の塊のようにも思える。しかし、こんな巨大な土の塊が空から降ってくる理由など見当もつかない。 メメはその後も、ガイコツのキーホルダーを上に乗せてみたり、体育袋に入ったブルマをかぶせてみたり、百二十円がどっかに入るかしらと試してみたりしたが、護の物体はなんの反応も示さなかった。 「死んでる?」 もともと生きているかどうかさえわからないが。 散々悩んだあげく、彼女はひとつの結論に辿《たど》り着くのだった。 「落し物……」 ---------------------[End of Page 7]--------------------- 落し物は交番に届けなくてはならない。そう考えたメメは、目の前にあるボーリング玉のような塊を拾うことにした。腰に力を入れて両手で抱え上げようとするが、どうにも重たくてビクともしない。それでも彼女は「落し物は交番へ」という正義感から、なんとかそれを持ち上げ、ゆっくりと歩き始めた。 だが、交番は彼女の白宅である神山《かみやま》家を通り過ぎ、さらにしばらく歩いた先にあるのだ。 このモーレツな重さの物体をそこまで運べるとは到底思えない。仕方なくメメは、一度家に持ち帰ってから、翌日交番へ届けることにした。 と、歩きながらそんなことを考えてはいるものの、まだニメートルほどしか移動していない。あまりの重さで、ろくに歩くことさえできないのだ。 途中で捨てて帰ってしまおうかとも思った。しかし、彼女の頭の中には例の言葉がこだまする。 「落し物は、交番へ……」 額に汗を浮かべながら、少女は黒くて丸くて重い物体を自宅まで運ぶのだった。 ---------------------[End of Page 8]--------------------- 第一章ママさんの一日警察署長 世田谷区《せたかやく》、南署《みなみしよ》。狭い室内に、石油ストーブとスチール製の机、そしてパイプイスがふたつだけという殺風景な取調べ室。壁には大きな鏡があるが、それは誰が見てもマジックミラーだとわかる不自然さを醸し出している。 何日も洗っていない髪の毛に、伸びつぱなしの無精《ふしよう》ひげ。数U問だんまりを決め込んでいる一人の容疑者を、二人の刑事が睨みつけていた。 一人の刑事は新入りで、情熱だけが取り柄だ。スーツがまだ似合っておらず、顔にも幼さが見え隠れしている。もう一人はベテランだろう。ハゲかけた頭をボリボリとかきつつ、Yシャツのポケットからタバコを取り出して口にくわえた。 「お前も吸うか?」 容疑者はひったくるようにしてタバコを受け取ると、ベテランの前に顔を突き出した。 火を点けろ、ということだ。 「おやっさん、コイツ、ふてぶてしいですね」 新入りが容疑者に吐き捨てるように言うと、ベテランであるおやっさんは苦笑《にがわら》いをする。 「新入り、そう言うんじゃない。まあ、あんまり長くここにいさせるわけにもいかないけ ---------------------[End of Page 9]--------------------- どな。警察署はホテルじゃないんだ」 彼は居酒屋の名前の入った紙マッチを使って、容疑者のタバコに火を点けた。それから自分にも同じようにすると、真っ白い煙を肺の奥へ吸い込む。 「新入りは吸わんのか?」 「はい。自分は酒もタバコもやりませんから」 「はは。それはいかんな。酒もタバコもやらんことには、酒とタバコをやるやつの気持ちはわからんぞ」 「ですが……」 おやっさんがタバコを一本差し出すと、新入りは渋々それを唇の問に挟んだ.、 火を点け煙を吸うと、彼はハデに咳《せ》き込み始める。頭がクラクラして、嫌な臭《にお》いが日の中に広がった。 「うへえ、こんなマズイもの、なんで吸うんですか。体にも悪いって言うのに」 おやっさんは彼を見て笑う。 「体に良いもんばっかりじゃ、面白くないだろ。世の中、そんなもんだ」 「ゴホッ。そ、そんなもんですかね」 「そうだ。最近の若いモンはマジメすぎていけねえ。悪いことをして、ちゃんと怒られて、それで人生を少しずつわかっていかなくちゃな」 ---------------------[End of Page 10]--------------------- おやっさんは半分ほど吸ったタバコを、机の上の灰皿に押し付けた。 「だが、お前のやったことは、怒られて済む問題じゃねえな……」 さっきまでの穏やかな調子とは打って変わった、厳しい声で容疑者に彼は迫った。ベテランの貫禄《かんろく》を感じさせる、年季の入った口調である。 「だから俺じゃねえよ。俺はなにもやってねーよ」 容疑者は口から煙を吐き出し、ニヤッと笑った。悪《わる》びれた様子もなく、本当に自分は無実であると思い込んでいるようだ。 「まあいいさ。いつまでしらばっくれていられるかな……」 おやっさんは意味深《しん》に立ち上がると、取調べ室についている唯一のドアをゆっくりと開けた。容疑者は、なにが始まるのかと身を硬くする。 サビついたドアが嫌な音を立てて開くと、そこには何故《なザ.》か逆光の中にシルエットが浮かんでいた。彼は思わず手を顔の前にかざし、目を細める。 「もー!悪い子ちゃんはどこなのー!署長さんの登場なんだからねー!」 光の中から登場したのは、今時誰《だれ》がそんなもん買うんだよ、というぐらいマヌケなシルエットのサングラスをした女性だった。パンダの目のフチドリにも似た形のサングラスの奥で、大きな瞳《ひヒみ》がパチパチと瞬《まばた》きをしている。 「はいはいはい、ちょっと失礼しますよー。署長さんですよー偉いんですよ、しかもかな ---------------------[End of Page 11]--------------------- り偉いんですよー」 自分では「署長」と言っているが、どこからどう見ても着ているのは婦警さんの制服であった。サイズが合っていないのか、ずいぶんと胸周りが苦しそうである。今にもボタンが弾《はじ》け飛びそうな姿からは、彼女が署長であるという威厳など感じられない。さらに、どこまでも能天気な声で話すせいで、説得力というものも皆無である。唯一署長らしいとこうと言えば、肩からかけた⊃日署長神山《かみやま》ビーナス」と書いてあるタスキだけである。 どちらかと言うとパーティーグッズに近いノリを感じてしまうが、そこしか「署長テイスト」がないのだから仕方がない。 「新入り、おやっさん、調子はどーなのよー?」 ビーナスなる女性は、やけに馴《な》れ馴《な》れしく二人の刑事に声をかける。 その光景を見て、容疑者は目の前で繰り広げられている光景に目を疑った。よくテレビで「一日署長」をしているアイドルなどは目にするが、こうして取調べまでするなんて聞いたことがない。そもそも、署長って取調べをするのだろうか。 「ビーナス署長。それが、まったくダメなんです」 「ビ!ナス署長。かなり厄介でしてな……。お任せしていいですかな?」 「そう。じゃあ、わたしが代わっちゃうわね!」 しかも、馴染《なし》んでいる。完全に署長として馴染んでいるのだ。.一人の刑事が彼女を見る ---------------------[End of Page 12]--------------------- 目は、長年一緒に仕事をしてきた上司を見つめるそれと同じである。 容疑者は焦った。なぜだ。なぜこんなにも自然に会話をしているのだ。どこか変じゃないのか。一日署長になんか大事な仕事をお任せしちゃって本当にいいのだろうか。彼は思わずタバコを消し、苛立《いらだ》った声で叫《さけ》んだ。 「誰《だれ》だ1お前は!」 容疑者に怒鳴られた彼女ば、これ以上ないほどのキョトン顔で自分を指差すと、えっへんと胸を張ってからこう言った。 「え?わたし?わたしは、署長さんでえーいす!」 敬礼のポーズをしつつ、取り出したホイッスルをピルルルルと鳴らすビーナス。あまりにも天真燗漫《てんしんらんまん》な笑顔に、容疑者は助けを求めるように二入の刑事を見つめた。 「どこが署長なんだよ!コイツのどこが署長なんだ!」 しかし彼らは口を揃《そろ》え、冷静に言い放つのだった。 「うん、どこからどう見ても署長だ」 「まったくもって我らの署長だな」 「嘘《うそ》つけ!なんで一日署長がこんなことしてんだ!パレードでもやってろ!」 その言葉を聞いて、ビーナスは顔色を変える。 「パレードP”なにそれ、そんな楽しそうなこともできるの?署長さんてー7」 ---------------------[End of Page 13]--------------------- 「いや、署長はパレードしねえけど、一日署長はするんだよ!なんでか知んないけど、車に乗って手を振るんだよ!」 「本当にP…わたしやる!パレードやる!おやっさん、ちょっとパレード行ってくるね!二人とも、後は任せたわよ!」 彼女が取調べ室から出ようとすると、おやっさんは慌《あわ》てて引きとめる。 「ちょ、ちょっと待ってくれ。署長がいなかったら、取調べはどうするんだ!」 「え?勝手にやっててよ。だって取調べよりパレードの方が面白そうなんだもん」 今度は新入りがビーナスに向かって懇願《こんがん》した。 「そりゃないっすよ。署長がいなかったら、話になんないじゃないですかあ」 それを見ていた容疑者は、納得がいかず二人の刑事に激しく怒鳴りつける。 「待て!なんで頼る!一日署長に頼るな!お前、ベテランだろP…お前だって熱血系の刑事だろPそれなのに、なんでこんな女に頼ろうとするんだP」 突然大声を出された刑事たちは、不思議そうな表情で顔を見合わせた。 「え?だって、署長じゃないですかね」 「おう。署長は頼りにするもんだろ」 「そりゃそうだけど!一日だろP明日になったら署長じゃねえんだぞP昨日だって署長じゃなかったんだぞPなんなんだよ、どうなってんだここはよう!」 ---------------------[End of Page 14]--------------------- ビーナスは制服のポケットから警察手帳を取り出すと、それを容疑者に見せて得意げに言い放った。 「署長さんはパレードに行くので、待機せよ!」 せよと言われても。彼の戸惑いをまったく無視して、彼女はスキップをしながら取調べ室から出て行った。それを見た新入りとおやっさんは、ふうと溜《た》め息《いき》をつく。 「まったく、うちの署長ったら」 たらじゃねーだろ。容疑者は唇を噛《か》みながらも、自称署長のZから数えた方が早そうな豊満な胸を思い出してモヤモヤするのだった。 神山《かみやま》ビーナス。彼女こそが神山家のママさんであり、現在唯一の女神であるところの女性である。ビーナスには女神候補である二人の娘がいるが、彼女たちはまだ候補なので正式な女神ではない。一人前の女神になるために、この世界で人間として暮らしているのだ。 「やーん、まさかパレードできるなんて思ってもみなかったわあ〜んっ」 南署《みなみしよ》の廊下を軽《かろ》やかな足取りで進むと、表に止めてあったミニバトになんのためらいもなく彼女は乗り込む。早速パトランプのスイッチを押すと、自と黒の車体の上で、ルビーのように赤い色をしたランプがフルフルと回転を始めた。 「それじゃママさん、パレードに出発でありまーす!」 ---------------------[End of Page 15]--------------------- 前後左右、全《すべ》てを確かめずにアクセルを力いっぱい踏み込むビーナス。その度胸の良さが女神たるゆえんだろうか。 シートの下から、エンジンの振動が全身に伝わってくる。ああ、パレード。素敵なパレード。彼女の頭の中には、紙ふぶきの中で喝采《かつさい》を受ける自分の姿しかなかった。 当然、車を発進させようとするその目の前に、自分の息子である神山佐間太郎《さまたろう》と、天使のテンコが通り過ぎようとしていることにも気づくわけがなかった。 「しゅつばーつ!しんこおー1」 ミニバトは迷うことなく駐車場から道路へと飛び出す。そこに横断歩道を渡っている佐間太郎がいようと、パレード中であるミニバトさんには関係のないことだ。 ぷっぷー。ばんつ。 交通事故にしては、とてもシンプルな音だった。ドッカーン!でもなく、ガッコーン!でもなく、地味に痛そうな音で「ばんっ」である。ママさんがパレードの妄想から現実に戻った頃《ころ》には、佐間太郎はタイヤの下で悲鳴をあげていた。 「おもいー1おもいー!パトカーが俺に乗り上げてるーH」 「きゃあああああ!佐間太郎がパトカーにひかれたあああああ!」 窓ガラスの外から、衝撃映像百連発な声が聞こえてくる。彼女は「あ、やばい」と思い、すぐにバックをした。 ---------------------[End of Page 16]--------------------- 「おおおおああああああ!」 車が後退すると、タイヤがギリギリと佐間太郎の上を通り過ぎる。テンコは驚きのあまり、頭の上からプシュプシュと湯気を上げながらその様子を眺めていた。 「…………これ、前に出た方がいいのかしら」 ママさんはどうすれば息子への被害を最小限でとどめられるのかを考えつつ、車を前にちょっと動かしたり、また後ろへ戻したりを繰り返す。その度に佐間太郎はミニバトに乗り上げられ、乱暴な小学生に捕まったバッタような悲痛な声をあげる。 「はああああううう!行ったり、来たり、すんんなああああ!ぴぎゃ!」 だーいぶ長い間、佐間太郎の上を前後した後、ここは素直にバックした方がいいわねんと気づいた彼女は、ミニバトを駐車してあった位置に戻した。それからしばらく車内で対策を考えると、ドアを勢いよく蹴破《けやぶ》って彼の元へと走り寄る。 「きゃああああ!佐間太郎ちゃんが!ママさんの愛《いと》しい佐間太郎ちゃんが何者かの手によってタイヤでグリグリとおおおおおおお!」 彼女の選んだ道は、しらばっくれることであった。もちろん、佐間太郎もテンコも、そんな手に引っかかりはしない。というか、散々ひきまくった車からピョコンと降りてきて「何者かの手によって」もなにもないだろう、というのが・.人の見解であった。 「オフクロ!なんでそんな格好してんだよ!なんで俺をひくんだよ!」 ---------------------[End of Page 17]--------------------- 「ひいいいい!佐間太郎《さまたろう》ちゃん、ぶたないで!ぶたないで!」 「ぶたないけど、理由を言え!理由を1」 人間であれば、ああ何度も車にひかれたら重傷は避けられないであろう。しかし神様の息子である神山《かみやま》佐間太郎には、人間界の物理的な事柄では体にダメージは負わないのである。その代わり、実の母親にミニバトで散々ひかれた、という精神的なダメージが彼の脳裏にしっかりとインプットされるのだった。 「でもよかった、佐間太郎ちゃんが無事で……。制服のスカート、覗《のぞ》く?」 「覗かねえよ。なんで母親のスカートの中を覗かなくちゃいけないんだっ」 佐間太郎はボロボロになった学生服を手で払いながら、んなことしなくていーって言ってんのに、スカートをチラチラとめくりつつアピールしてくるママさんを睨む。 「だって、佐間太郎ちゃんに乗り上げちゃったから、お詫びの気持ちとして、ママさんのセクシーショットコーナーを十五分ぐらい堪能《たんのう》してもらおうと思ったのにい……」 「いらん。そんなミニエロコーナーいらん。それより、どうしてそんな格好してんだ?」 ママさんはまたもやホイッスルを取り出すと、それを口にパクッとくわえた。 ピルルルルルと元気に鳴らしながら、背筋を伸ばして例の敬礼のポーズである。 「なぜならママさんは、署長さんだからでーす!」 テンコはその場に崩れ落ちた。 ---------------------[End of Page 18]--------------------- 嫌だ。どうして女神のくせに、こんなに意味のわからないことをしているのだろうか。 もっと、自分の正体が女神だとバレないように、人目を忍んでコッソリ暮らすとか、そういう考え方はできないのかしら。 「あれ、テンコちゃんどちたの?頭から頼りない感じで煙が出てるけど……」 ママさんの育う通り、彼女の頭からは「SOS」を告げるのろしのような煙がヒがっていた。脱力のあまり、プシュプシュと湯気を噴き出す元気もないということなのだ。 「オフクロ!さっさと家に帰るぞ!それ、脱げ!」 「えP”脱いでいいのP本当に17”いやんもう、佐間太郎ちゃんてば、意外と積極的なんだから……」 彼女はそう言い壕がら、いそいそとその場で制服を脱ぎ始めた。それを見た彼は、轍ててママさんの腕を掴《’カ》んで止めようとする。 「コラコラ!ここで脱ぐんじゃねえ!しかるべき場所で脱げ!」 「あふん!そんなに強く抱きしめないでん!女神のハートはガラス細工なの!」 「割れろ!そんな細工、割れてしまえい!」 果たしてハートがガラス細工の母親が、息子をミニバトでガンガンひくかどうかは不明である。 「さっさと帰るぞ、帰るからな」 ---------------------[End of Page 19]--------------------- 「やだやだやだーん1まだパレ1ドしてない!パレードしたら帰るからあ〜」 ママさんは甘えた声で佐間太郎《さまたろう》に言い寄った。彼の胸の辺りに、妙に柔らかいポヨヨン的なにかが押し付けられる。頭ではそれが母親の胸だということを理解できるが、体は正直である。その素敵な感触に、彼は思わずうろたえてしまう。まだまだ若いのだ。 「うう。近寄るな!その凶悪なブツをしまえ!」 「だからー!パレエードしたら帰るから1ね!ね!それまで許してP」 猫なで声を出しつつ、さらに佐間太郎に擦《す》り寄るママさん。なぜか頬《ほお》を桜色に染め、少女のように恥じらっている。自分から胸を押し付けて恥じらうのもよくわからないが。 母親と言えども彼女は女神である。人間とは比べ物にならないほど美しい。上から見下ろす彼女の顔は、佐間太郎よりも年下の少女のようにも見える。角度によって大人っぼく見えたり、幼く見えたりするのだから始末が悪い。どんな男でもグッときてしまう、オールマイティーな女神なのだ。 「わ、わかったよ。じゃあパレードしたら帰るからな」 佐間太郎が根負けすると、テンコは大声で必死に抗議した。 「ちょ、ちょっと!なんでパレードすんのよP意味わかんない!早く帰ればいいじゃない!」 そんなテンコに当てつけるように、ママさんは彼の腕に絡みつく。もちろんその際には、 ---------------------[End of Page 20]--------------------- 意識せずとも暴れ馬のようにダイナミックな胸が佐間太郎の体に密着する。 「おほほほほ、ごめんなさーいね。佐間太郎ちゃんとパレード行ってくるから。テンコちゃんはここで待機!」 「なんであたしだけ待機なんですか!もう、佐間太郎!知らないからね!」 頬を膨らませ、テンコは顔を真っ赤にする。実の母親の色仕掛けに引っかかるなんて、とんでもない神様候補だ。帰ってきたら跳《ヒ》び膝蹴《ひざげ》りでもカマしてやる。 彼女はそう心に誓いつつ、プンプカと怒りながら大股開《またびら》きで去って行った。 「おい、テンコ待てよ!お前も一緒に行けばいいだろ!」 「うるさーい!あんたはママさんと一緒にパレードでもなんでもしてなさいっ!」 こうして神様家族の母親と息子による、最初で最後のパレードが始まったのである。 世田谷《せたがや》通りを一台のミニバトが、理由もなく駆け抜ける。いや、理由はある。パレードだ。しかし、パレードと言っても、パトランプをテカテカと回転させつつ、ママさんが窓から手を振り「どーも!署長さんです!どーもです!」と叫《さけ》んでいるので、どちらかと言うと選挙カーのようにも思える。 運転席にいる笑顔の彼女とは対照的に、助手席ではムスッとした顔の佐間太郎が腕を組んで座っていた。 ---------------------[End of Page 21]--------------------- 「あらどうしたの佐間太郎《さまたろう》ちゃん、なんで笑わないの?ママさんのフトモモ触る?」 「触んねーよ」 「どうして?これほら、さっきスリット深くしたから。セクシーでしょ?」 言われてみれば、スカートに入っている切れ込みが、通常のものよりもずっと深い。そもそも婦警さんのスカートって、こんなにミニだったっけ?などと思いながら、佐間太郎はなるべく彼女の方を見ないように心がけた。 確かにママさんはお色気満点なのだが、やっぱり彼にとっては母親なのである。いくら美人だとは言え、どんなにナイスバディだとは言え、母親にグッときてしまうのはよろしくないと自分に言い聞かせた。 「ふう、暑いから下着だけになろうかしら」 「なるな!なんで下着になるんだよ!もはや冬だぞ!」 「だって大きな声出したら汗かいちゃったんだもんっ。ダメ?」 「ダメっ!」 既に衣替えも終わって、本格的に冬への扉がゆっくりと開き始めている。しかし、この車内だけは常夏《とこなつ》の楽園のようなテンションなのであった。 「それにしてもよ、なんで署長なんだよ。なにがあった」 佐間太郎は彼女が一日署長をしている理由が聞きたかった。どうしてイキナリそんなこ ---------------------[End of Page 22]--------------------- とを思い立ったのであろうか。もしかしたら、彼女のスリットよりも深い理由があるのかも知れない。 「そうね……。それには訳があるの……」 ママさんはハンドルをクルクルと回しながら、真《ま》.面目《じめ》な調子で言った。 やはり、だ。さすがの彼女も、思いつきでこんなことをするはずはない。佐間太郎は窓の外に逸《そ》らしていた視線を、ママさんの方へと戻七た。 「実はね、佐問太郎ちゃん。テレビで警視庁密着二十四時をやっててね。それで、カッチョイイわねえ……って思ったのよ……」 ママさんはそう昌.尊つと、黙《だま》り込んだ。 窓の外に世田谷《せたがや》の風景が流れていく。佐間太郎は、その続きを辛抱強く待った。 しかし、いくら待っても彼女の唇が動くことはなかった。もしや。もしや……。 「ってそれだけか!オフクロ!もしかして、ただなんとなく『カッチョイイ』から署長やってんのか!」 「あ、ドライブスルーだ。佐間太郎ちゃん、お腹空かない?」 「無視すんな!」 予想通り、それだけのようであった。深い意味などどこにもない。テレビを見てて「あ、いいな」と思ったから実行に移したのだ。さすが女神である。 ---------------------[End of Page 23]--------------------- 女神と彼女の娘である女神候補たちは、女神の吐息《といさ》という奇跡が使える。これは、人間の脳波をコントロールして考えを操ったり、空想を見せたりできるものだ。きっとママさんは、その女神の吐息を悪用して、警察署の職員に「自分が本物の署長である」と思い込ませているのだろう。 「オフクロ、そういうことばっかりやってると、オヤジに怒られるぞ?」 「大丈夫よー!だってパパさん、ママさんのやることは全部オッケーだもんっ。それにね、パパさんたら最近天国でお仕事ばっかりしてて、ママさんのこと構ってくれないんだもん……寂しくて……寂しくて……」 彼女はうっすらと瞳《ひとみ》に涙をためた。彼女の夫である神山治《かみやまおさむ》は、正真正銘本物の神様である。以前は家族全員で世田谷区《せたがやく》の二戸建てに住んでいたが、今の彼は天国に単身赴任中である。もちろんパパさんの元に行こうと思えばママさんはいつだって行けるが、仕事の邪魔をしてはならないという意識が働いているのだろう。こんな能天気に見えて、実は寂しがりやなのかも知れない。 「そっか……。オフクロもいろいろあるんだな……」 佐間太郎《さまたろう》は、自分の母親が寂しそうな顔をしているところを初めて見た.なんだか、大人になっても悲しいことがたくさんあるのだなと思うと、切ない気分になる。 「でも署長とかでよかったよ。出会い系とかにハマんなくてさ。まあ人間じゃないから、 ---------------------[End of Page 24]--------------------- 女神のオフクロは関係ないだろうけどさ」 彼がそう言うと、ママさんはキョトンとした顔で答えた。 「え?今、現在進行形でハマってるけど?」 「マジかよおおーー“女神が出会い系サイトにハマるなんて、聞いたことねえぞ!」 「だって寂しかったんだもん!でも会うのは怖いの!だから会わないの!メールだけ、メールだけよん!」 「あほか!女神としての自覚あんのかP」 「女神の前に一人の女だもの!ママさんだってメスっ子なのよ!」 「なんだそりゃ!」 がっしゃーん。 『あ』 ドライブスルーの真ん前で、ミニバトは歩行者に勢いよくぶつかってしまった。本B.4度目の交通事故である。 「おわあああああ!オフクロ!よそ見してるからだろ!きゅ、救急率!」 「いやあああん!佐間太郎ちゃん、ママさんの愛でどうにかならないかしら!」 「知るか!いいから救急車呼べ!救急車!」 ママさんは慌《あわ》てて携帯電話を取り出すと(出会い系サイトをやるために最近買ったらし ---------------------[End of Page 25]--------------------- い)、ダイヤルボタンをピッピッピッと押した。 プルルルル。プルルルル。プルルルル、カチャ。 ママさんは携帯電話を耳に押し当て、電話回線を通じて聞こえてくる音に集中している。 佐間太郎《ざまたろう》もその姿を固唾《かたず》を飲んで見守る。 「…………なるほどね……」 しばらくした後、ママさんはゆっくりと言った。 「……四時、三十八分ですって……」 鄭酢即な調子の彼女に、一瞬なにが起こったのか佐間太郎はわからなくなる。二人は数十秒間、お互いの目を見詰め合った。重苦しい沈黙が続く。 「あ、三十九分になった」 「ってそれ時報じゃねえかよおおおおおH」 「きゃああああ!こういうお約束、嫌いP嫌い19…」 などと二人が車内でドタバタしている今も、ミニバトにひかれてしまった人間は苦しんでいるのだ。さっさと助けた方が賢明だと思うのだが。 「さあ、佐間太郎ちゃん!冗談はさておき、ケガがないか見に行かなくちゃ!」 「冗談ってわかってんなら、そういうの止《や》めろよな!」 二人はミニバトから降りると、数メートルほど吹っ飛ばされた被害者の元へと駆け寄っ ---------------------[End of Page 26]--------------------- た。 「おい!大丈夫かP”って、お前は進一《しんいよノ》P」 「うぐぐぐ。骨、折れたあ……」 そこに倒れていたのは、佐間太郎のクラスメイトである霧島《、噌り、し葦》進一であった。彼を見たママさんは、あらま!と驚いた後、またしてもピルルルとホイッスルを吹いて敬礼する。 「はーい、ママさんは署長さんでーすっ。えっへん!」 「オフクロ!そういうことやってる場合じゃねえだろ!」 進→は血の気の引いた真っ青な顔をしながらも、ママさんを見て感想を述べた。 「うわあ、その婦警さんの制服スゲエ似合ってますよお……」 「お前も感心してる場合じゃねえだろ!腕、プラプラしてんぞp」 「腕がなんだ!今はその深いスリットを見るべきだうがよ!時と場合を考えろよ!」 「考えなくちゃいけねえのはお前だろ!」 進一は腕をプラプラさせながらも、食い人るように彼女のスリットに注11した。年頃《ヒしころ》の男の子の執念とでも言うべきだろうか。この執念を集めれば発電ができそうなほどのパワ!である。 そこにサイレンを鳴らしながら救急車がやってきた。もちろんこれはママさんのお陰ではなく、衝突事故を目撃していた通行人の通報によってやってきたものだ。 ---------------------[End of Page 27]--------------------- 担架《たんか》に乗せられながらも、進一《しんいち》はまだ彼女のスリットに注目している。ママさんもその視線に応えるべく、ミニバトのボンネットに腰掛けてしきりに足を組み替えるなどのサービス精神を見せた。 「「佐間太郎《さまたろう》そう言い「……はあ佐間太郎進一が去っつかないと「オフクロ「え?も「違うよ!「なにそれしょんぽ人を思い切「わかったママさん》!お前のお母さん、最高だよ!ありがとう!ありがとう1」 そう言い残しつつ、彼を乗せた救急車は病院へと向かって行った。 「……はあ。まったく、なんてことだよ」 佐間太郎がうなだれているというのに、ママさんはまだセクシータイムを続行している.進一が去ったことに気づいていないのか、今度は自らの息子へのアピールなのかは判断がつかないところだ。 「オフクロ、もういいから。足、広げんな」 「え?もっと角度つけるの?いやあ〜ん、佐間太郎ちゃんてばマニアックね!」 「違うよ!もうパレード終了1この車、警察まで戻して帰るからな」 「なにそれ!まだパレードのパの字も味わってないのにい……」 しょんぼりと肩を落としながら、力なくヒョロロロロルとホイッスルを吹くママさん。 人を思い切りはねておいて、まだ足りないというのだから困ったものである。 「わかったわよ!署に戻ればいいんでしょ、署に.炭れば!」 ママさんはプンスカと怒りながら、佐間太郎をミニバトに乗せて南署《みなみしよ》へと引き返す。ま ---------------------[End of Page 28]--------------------- さか、その先で恐るべき事件が勃発《ぼつばつ》しようとは、女神である彼女ですら想像がつかないのであった。 その後も軽く通行人をはねながら、ミニバトは無事に南署に戻ってきた。 「ふう、無事到着ね!」 「無事じゃねえだろ!さ、帰るぞ?」 「えー!やだやだ!ママさん、もうちょっと国家権力を無駄に使いたい1」 「約束したじゃねえか!破るつもりか!」 「うん!」 どこまでも真《ま》っ直《す》ぐな笑顔のまま、ママさんは警察署の中へとスキップで入って行った。 まったく、たぶん世界で一番ロクデモナイ女神である。 佐間太郎は仕方なく彼女の後を追った。もし放っておいたせいで、またケガ人が出たら笑いごとでは済まされない。相乎が進一だったからよかったようなものだ(他《ほか》にもいたが、それはまあ、それである)。 ママさんを探して署内を歩き回ると、取調べ室のドアが開いているのを見つけた。 中を覗《のぞ》いてみると、既にさっきとは違うマジメなテンションで、彼女は容疑者を問い詰めているのだった。 ---------------------[End of Page 29]--------------------- 「あんたねえ。故郷のお母さん、泣いてるわよ?」 「へっ。俺《おれ》にはオフクロなんていねえんだよ。とっくの昔に死んだぜ」 「えP亡くなったのP…」 それを聞いた途端、ママさんはオヨヨと泣き崩れる。しかも、なぜか佐間太郎の胸に飛び込み、声を上げて号泣していた。 「泣くな!オフクロ、簡単に泣き過ぎだ!」 「うわーん!佐間太郎ちゃん、あの容疑者の人かわいそう!だって、お母さんいないんですって!許してあげましょうよ!ね!ね!」 「泣くのはいいけど、なんで俺の胸で泣くんだ!」 「だって佐間太郎ちゃんの胸って、ママさんが近づくとドキドキしてカワイイんだも!ん!わーん!もしかしてママさんのこと、女として意識してる?わーん!」 「してねえよ!」 新入りとおやっさん、そして容疑者までもが「いいなあ……」という感じで口をポカンと開けて見ている。彼女はようやく気を持ち直すと、鼻をすすりながら新入りに聞いた。 「ぐすぐす。で、新入り。この人、なにしたの?」 「署長!それ知らないで今までやってたんすか!」 「だって教えてくれなかったじゃないの!きいー!」 ---------------------[End of Page 30]--------------------- ママさんの逆切れをなんとかなだめると、彼は持っていた書類を声に出して読んだ。 「先日の深夜。世田谷区《せたがやく》の高校に通う女子高生をナイフを持って襲いました」 「なによ!コイツ悪い奴《やつ》じゃん!泣いて損した!」 「それだけじゃありません。それを偶然見ていた、少女と同じ学校に通う男子生徒をナイフで刺して逃亡したんです。男子生徒は救急車で運ばれました。幸い命に別状はなかったものの、ケガがほぼ完治した今でも意識が朦朧《もうろう》としているようです。PTSDかも知れません」 ママさんは「PTSD」という言葉がサッパリわからなかったが「なるほどね」と納得して容疑者の前に仁王立《におうだ》ちになった。 「あんたがケガさした男の子、ぴーていーえすでーだって!どうすんの!」 「わかってんのか?PTSD」 彼が小馬鹿《ニほか》にしたように言うと、ママさんはニヤッと笑って百った。知らない振りをしているだけで、実は知っているのであった! 「パーマネント・トリートメント・シャンプー・ドデスカ?美容院用語よね!そうよね、おやっさん!」 「……心的外傷後ストレス障害です」 本当はサッパリなのであった! ---------------------[End of Page 31]--------------------- 「おやっさん!みなまで言わないで1全部コイツが悪いんだからね!」 「俺が悪いんじゃねえよ、関係ねえじゃねえか!そもそもだな、あいつが正義のヒーローぶって出てくんのが悪いんだ。だから刺されても文句言えねーんだよ!」 「あんた死刑!」 「ええっP」 署長の役割をまったくわかっていないような発言に、容疑者は驚いた。 しかし、女神の吐息《といき》で操られている彼以外の二人の刑事は、うんうんと頷《うなず》きながら書類にペンを走らせる。 「しけ……い、と」 「おいおい!なんで警察でそこまで決めるんだよ!裁判はどうした俘」 佐間太郎《さまたろう》はその光景を黙《だま》って見ている。口を挟むよりも、さっさとママさんの気が済むのを待った方がよいと判断したのだ。 「ふざけんな!俺は納得いかねえぞ!弁護士を呼べ!」 それを聞いたママさんは、ビシッと佐間太郎を指差した。 「佐間太郎ちゃん、弁護士役ね!はい、意見はP」 「えーと……死刑?」 「ほら決定!ささ、罪を受け入れなさい」 ---------------------[End of Page 32]--------------------- 「役ってなんだ!俺《おれ》はママゴトやってんじゃねえぞ!本物の弁護士を呼べ!」 当然とも言える彼の叫《さけ》びをまったく無視し、ママさんは「いだっ!」と口の端を指で引っ張って言った。子供じゃあるまいし、なんという格好だろう。そんな時でも整った顔立ちが崩れないのはさすがであるが、そんなさすがいらない。 容疑者は痺《しぴ》れを切らし、一瞬の隙《すき》をついて立ち上がると、ママさんを後ろから羽交《はが》い締《じ》めにした。 「きゃあああああ!」 それを見た刑事と佐間太郎は、唖然《あぜん》として声を上げる。 「オフクロ!」 「署長!大丈夫ですか!」 容疑者はママさんの腰に下げてあるガンホルダーから拳銃《けんじゆう》を抜き取り(婦警さんなのにどうして拳銃を持っていたかというと、カッチョイイからである)、それを彼女のこめかみにヒタリと当てた。 冷たくて重い、ゴツゴツとした鉄の感触がママさんの頭に押し付けられる。それは確実に相手を損なう能力を持つ、冷たい機械だった。 彼女は驚きの余り、普段よりも強張《こわば》った声で叫んだ。 「いやあああああ!佐間太郎ちゃーん!」 ---------------------[End of Page 33]--------------------- 容疑者は、さっきまでの態度との違いに勝利の微笑を浮かべる。だが、その続きの言葉を聞いて自分の耳を疑った。 「やーん!なにこれ、カッチョイイー−」 カッチョイイ?こんな状況にあって、なにを言っているのだろう。彼女は、人質となったそのシチュエーションに、燃えているのだ。 「テメェ、頭おかしいのか!頭に突きつけられてるもんがわからねえかP」 「けんじゅーでーす!」 「じゃあ大人しくしろ!」 「やーん!佐間太郎《ざまたろう》ちゃーん!この凶悪な犯人から、ママさんを救って、凡〜ん!」 彼は自分のいる光景が夢のように思えてきた。これほどまでに緊迫した状況でありながら、彼女の態度はまったく変わらない。怯《おぴ》えるどころか、今の状態を楽しんでいるかのように思える。いや、実際に楽しんでいるのだ。まったくもって。 「署長から手を離せ!」 新入りが拳銃《けんじゆう》を構えて、容疑者に銃口を向ける。真っ黒い穴が、彼の頭を狙《ねら》った。おやっさんはその銃口にそっと手を添え、下に降ろすように促した。 彼を刺激するのは得策ではない。なにしろ、向こうには大切な署長が人質として捉《レ噂ら》えられているのだ。 ---------------------[End of Page 34]--------------------- 「佐間太郎ちゃーん!素敵なアイデアでこのピンチを切り抜けてー!そうだ、とんちよー!とんちで解決しなさーい!ママさんを救ってーん!」 そんな刑事たちの思惑とは裏腹に、ママさんはお気楽な声で佐間太郎にエールを送る。 容疑者は苛立《いらだ》ち、彼女の口にハンカチを詰め込んだ。黙《だま》らせた方が、物事がスムーズに進むだろうとの考えからだ。 『むぐぐぐ!佐間太郎ちゃーん!なんかママさん、人質いっ!って感じよねえ〜。 すんごーい、テレビドラマみた〜い!』 しかし、佐間太郎の頭の中にはママさんの声は届くのである。これは、神様家族だけが持つ特別な力である、テレパシーにも似た能力だ。 彼らの問に娃.肖葉を超えた意思の疎通があり、声だけでなく白分の顔などを映像として相手に送ることができる。テレビ電話に近いものだと考えてもらっていいだろう・、今は・.人とも顔が見える距離にいるので映像は使っていない。 『オフクロ!あんま犯人を刺激するな!』 『なんで、凡?だってママさん、撃たれても.平気だもーん』 『そうじゃなくて!もし警察の人が撃たれたら.平気じゃないだろ!』 『…:・あ、そっか。.じゃあママさん大人しくする。早く助けてね!』 不意に大人しく黙り込んだママさんに、容疑者は.11惑いつつも安心した、あのままのぺ ---------------------[End of Page 35]--------------------- iスで騒がれていたとしたら、人質の意味がまったくないではないか。 「それじゃあみなさん、お楽しみの時間といきますか……」 彼は不敵な笑みを浮かべると、拳銃《けんじゆう》をママさんのスカートの裾《すそ》にあてがった。 「ひひひ、刑事さんたちよ、署長のここ、見たことあるか?」 銃口がゆっくりとフトモモの上をのぼっていく。それに引きずられるようにして、スカートがめくり上げられる。 「んんんんんんん!んんんふえばん、んぐうああああああ!」 ママさんは容疑者の腕の中で悲痛な声を上げた。彼はその声を聞き、満足そうに頷《・’−なず》く。 しかし、佐間太郎《さまたろ「77》の頭の中だけには、彼女の声の本当の意味が伝わっていた。 『いやああああん!あたしってばン、セクシイイィイィイ!』 殴ったうかホンマ。佐間太郎はそう思ったが、黙って拳《こぶし》を握り締めるに留《ヒど》める。 「止《や》めろ!署長になにをする!」 新入りはそう叫《さけ》ぶが、人質に取られている彼女をどうすることもできない。おやっさんも、悲痛な表情で顔を背ける。 その中で唯一佐間太郎だけが「いやいや、そんな真剣にならなくていいから。あの人、喜んでるから。自分がセクシーとか言ってるから」と呆《あき》れた顔をするのだった。 フトモモが次第に露《あらわ》になり、大胆に開いたスリットの隙間《すきま》から真っ白い肌が見える。 ---------------------[End of Page 36]--------------------- 下着が見えるかどうかギリギリのところで彼は手を止め、ニタッと笑う。 「よし、じゃあ今度は上だな……」 容疑者は制服の胸の部分、Yシャツのボタンをひとつひとつ銃口を使って器用に取り外し始めた。はちきれそうな胸が、ボタンが取れるたびに顔を覗《のぞ》かせる。まだブラジャーは見えないが、大きく盛り上がった谷間が遠慮なく外へと飛び出した。 『佐間太郎ちゃん!これがママさんの胸よ!どう!見て!グツドリバー?バッドリバー?』 『うるせえ!エロ過ぎる!こんなんいかんぞ!』 『大丈夫、健康的なお色気だから!ママさん、どんなに露出しても健康的なお色気だからPTAとかから苦情こないから!』 全然大丈夫じゃなさそうなセクシーショットの披露に、佐聞太郎はこのままでは女神失格だと焦る。確かに女神と言えば貝の中から全裸で登場したり、なんだか薄っぺらい布だけをまとった姿で彫刻にされたりと、セクシーと切っても切れない関係である。 だがしかし!安い!このお色気は、余りにも安っぽい!まるでVシネマじゃないか!女神だったら、もっと神《ごうごう》々しいお色気を見せてくれ!婦警さんのコスプレでフトモモやら胸をチラチラさせるなんて、B級グラビアアイドルじゃないんだから! 「佐間太郎1。なにしてんのよー。いい加減に帰ろうよお〜」 ---------------------[End of Page 37]--------------------- その時、ドアが開いて一人の少女が入ってきた。それは他《ほか》でもないテンコである。 彼女は一時は怒って帰ろうとしたが、二人が心配になってずっと警察署の中で「待機」 していたのだ。 「あ。テンコ……」 佐間太郎《さまたろう》は突然の彼女の登場に、どう言えばいいのかわからなかった。なぜかママさんは拳銃《けんじゆう》を突きつけられ、胸やらフトモモやらを激しく露出されている。テンコの思考回路からいって、どういう状況であっても感じることは一緒だろう。きつと、彼の予想通りの言葉とリアクションが発せられる。 「佐間太郎のエッチイィィイイイィイ1」 彼女は見事に予想通りの言葉を発すると、頭からプシュウウと蒸気を噴出させた。 「俺《おれ》じゃねえだろ!俺は関係ねえだうが!」 「なによ!そんなに大人の体が好きなのp…いいわよ、じゃあ見てなさいよ!そこのあんた、もっとハデにやっちゃいなさいよ!佐間太郎の変態スケベエロチカンバカアホマヌケーーー・」 そう言ってテンコは顔を真っ赤にして怒る。 「おっほっほっ、テンコちゃん。佐間太郎ちゃんはママさんのものってことね』 『ママさんは黙《だま》っててください!大人しく露出されててくださいっ!』 ---------------------[End of Page 38]--------------------- 頭の中に直接飛んでくるママさんの意思に反論しながら、彼女は地団太《じだんだ》を踏むのだった。 困ったのは容疑者である。人質を取ったと思ったら、いきなりドアから少女が入ってきて頭から湯気を噴出。さらに、この状況に驚きもせずに「もっとやれ」と命令して怒っているのだ。なんなのだ。どうして怯《おび》えないのだ。この自称署長といい、制服姿の少女といい、世の中おかしい。もっと凄《すご》い修羅場《しゆらば》でもくぐってきたとでも言うのだろうか。 「へっ。若い女が来たじゃねえか。丁度いい、コイツと人質を交換するとするか」 容疑者はそう言って、ママさんを突き飛ばすと、テンコに向かって歩き始めた。 銃口を彼女の頭に向けながら、一歩、また一歩と近づく。 「な、なによ!そんな鉄砲なんて怖くないんだからね!」 テンコは彼に向かって果敢《かかん》に言うが、拳銃の持つシリアスさのような物に怯えていた。 もし弾丸が発射されたとしても、天使である彼女が傷つくことはない。しかし、吸い込まれそうな黒い銃口が、テンコの心を不安にさせる。 その穴は深く、暗く、不吉ななにかを象徴しているように息苦しかった。 「テンコ逃げろ!」 佐間太郎はテンコに近づく容疑者に向かって走り出すと、そのまま体当たりをする。、しかし、彼はそんなことなんでもないふうに佐間太郎を蹴り上げ、壁に叩き付けた。 「佐間太郎!」 ---------------------[End of Page 39]--------------------- たとえ痛みがないとわかっていても、彼が頭を打ち付けている姿は見ていて気持ちのいいものではない。彼女は抱き起こすために佐間太郎《さまたろ・う》に走り寄ろうとするが、その途中で容疑者に腕を掴《りか》まれた。 「ちょっと、離しなさいよね!」 「嫌だね。今度はこの若いお嬢さんのセクシーショーといこうぜ」 彼は銃身をペロリと舐《な》めると、それをテンコの頬《はお》に押し付けた。 「くさいi!鉄くさいしツバくさいー!やあああああ!」 妙に緊迫感のない悲鳴を上げつつ、彼女は顔を背ける。その表情を見て、容疑者は顔を歪《ゆが》めて笑った。 「そうそう、俺が欲しかったのは、そういう辛そうな声だ。あのおばさんは神経が図太いらしいからな……」 佐間太郎は打ちつけた頭を手で押さえながら、彼に向かって懇願《こんかん》するように言う。 「もう止《や》めてくれ。お願いだ。それ以上は、止めてくれ」 「ひひひ。この期《ご》に及んで命乞《ご》いか?カッコワルイなあ、男の子さんよお」 容疑者は心底楽しそうに眩《つぶや》く。拳銃《けんじゆう》の銃口はテンコと佐間太郎の間を、フラリフラリとさまよい続ける。 「違う……。そうじゃない。それ以上言うと、あんた……」 ---------------------[End of Page 40]--------------------- 「なんだあ?」 「酷《ひど》い目にあうそ?」 意外な佐間太郎の言葉に、彼は大口を開けて笑った。 「あははは!酷い目にあう?それは脅しのつもりかつ・もしかして、お前が俺をどうにかするって言うのかP十年早いんだよ!このクソガキ!」 「そうじゃない。俺じゃない」 ひどく真面目《…じめ》な佐間太郎の様子に、容疑者もなにか深刻な空気を感じた。 「お前じゃないって言うなら、誰《だれ》が……」 「後ろを見ろ」 彼に言われて振り返ると、そこには突き飛ばされて、床に倒れたままの姿のママさんがいた。彼女の周辺は空気が歪《ゆが》み、背中の真ん中ほどまである長い髪は水草のようにフワフワと宙に浮いていた。 「な、なんだP」 容疑者は轍ててテンコを離すと、ママさんに銃口を向けて狸い澄ます・ 「てめえ、バケモンか19”どういうことだP」 「…………って:…・れ……た」 彼女は地面を向きながら、なにやら小声で眩《つふや》いている。それは地の底から響いてくるよ ---------------------[End of Page 41]--------------------- うな、恐ろしく低い声だった。 「……ん……って・…・・われ……た」 次第に言葉は輪郭を明確にさせ、曖昧《あいまい》だった意味はハッキリとした怒りとなって容疑者に向かう。 「ママさん……おばさんって……言われた……」 怒っているのだ。おばさんと呼ばれたことに対して、かな〜り怒っているのだ! ぶちん。 その音は、取調べ室にいた全員の耳に届いた。 「誰がおばさんですってこら犯人あんた絶対に許さないからねなにが若い女がきたよママさんは若くないっていうの確かにママさんはテンコちゃんより生きてるけどそれがなんだって言うのよ熟女の良さとかわかってナンボじゃないのとにかくあんたは許しませんからねえええええええH」 あまりの早口に、ママさんがなにを言ったのか理解できる者は少なかった。容疑者は突然の絶叫《ぜつきよう》に唖然《あぜん》としているところを、ママさんのフライングドロップキックを顔に受けて床に激しく叩《たた》き付けられる。 「きいいいいいい1あんた、裁判とか言ってないでこの場でママさんがオシオキしてあげるわよー!むきー!むきi!むきー!」 ---------------------[End of Page 42]--------------------- その後は地獄だった。倒れている男に向かって、彼女は顔面の中心のみを狙《ねら》って蹴《け》りやら殴打やらを繰り返したのだ。二人の刑事が止めに入っても、佐間太郎《さまたろ・‘9》とテンコがいくら叫《さナ》んでも、その怒りは収まることを知らなかった。 そう、彼女はこれでも女神なのである。女神の怒りに触れた人間には、それ相応の罰が待ち受けているのだった。 佐間太郎とテンコは、その様子を見ながら気の毒そうに眩《つぶや》く。 「うわ、鼻を蹴ってる……」 「ちょっと佐間太郎、止めてきなさいって」 「やだよ、自業自得だし……」 「そうね……」 その一方的な天罰は、時計の短針が一回りするぐらい続いたという……。 すっかり陽《ひ》も落ちた南署《みなみしよ》の駐車場。やることやってスッキリとしたママさんが、ニコニコ笑顔で二人に語りかける。 「いやーん、署長さんて楽しいのねー。また今度やりたいわ!」 ゲンナリとした様子の佐間太郎とテンコは、その言葉に返事もせずに歩き出した。 「なによ、ちょっと、どうしたのよ。ママさん、セクシーじゃなかった?」 ---------------------[End of Page 43]--------------------- 「いや、そういう話じゃなくてさ。なあオフクロ、。もう女神の吐息《ヒしなり》、ちゃんと解いたのかよ?」 「解いた解いた!ちゃんと記憶も消しといたから!あの容疑者がなに言っても、逃げたいための言い訳になるからね〜」 まったくもって、女神の遊びもここまでくると迷惑である。テンコは、彼女がなにかしてるのを見つけても、今後は絶対に無視しようと心に誓うのだった。 「あれ、三人揃《そろ》ってなにしてるんですか?」 声の方を振り返ると、そこには菊本高校《きくもとこうこう》の制服を着た橘愛《たらばなあい》が立っていた。真面目《ましめ》そうな三つ編みを揺らしながら、トコトコとこちらに近づいてくる。 「いやもう聞いてよ、ママさん大活躍の巻だったんだから!」 ママさんは得意げに言って、シュッシユッとシヤドーボクシングの真似《まね》事をする。 「え?そ、そうなんですか。なんだか全然わかんないですけど……。神山《かみやま》くん、テンコさん、そうなの?」 「佐間太郎《さまたろう》、あたしパス」 「俺もパス」 「じゃあママさんが説明するわねー!あのねー!ママさんねー!」 二人の苦労を知ってか知らずか、ママさんは百パーセントの笑顔で語りだそうとした。 ---------------------[End of Page 44]--------------------- その時である。愛の表情は強張《こわば》った。ママさんが振り返ると、警察署の入り口には拳銃《けんじゆう》を持った容疑者が立っていた。 「へへへ。終わりじゃねえぞ。ふざけた奴《やつ》らだぜ」 佐間太郎もテンコも、愛が狙《ねら》われたらお終《しま》いだと顔色を真っ青にする。彼女は神様家族ではない、ただの人間なのだ。 「もうクダラナイのはお終いだ。さっさとやってやるよ」 愛は持っていたカバンを地面に落とした。ついていた人形のキーホルダーがアスファルトの上でバウンドする。 容疑者は、愛に狙いを定めた。そして、迷わずに引き金を引いた。 「きゃあああああああああ!」 愛は顔を手で覆って、叫《さけ》び声を上げる。佐間太郎もテンコも、そしてママさんですら彼女を守ることはできなかった。 じょじょじょじょじょじょじょ。 銃口から凄《すさ》まじい勢いで発射された水は、愛のL半身をまんべんなく瀞《の》らすと、彼女の制服をビショビショにさせた。〔番驚いたのは、拳銃を持っていた容疑者である。 「水鉄砲p…」 悔しそうにママさんを睨みつける彼に、背後から数人の警察官が飛び掛かった。 ---------------------[End of Page 45]--------------------- 「さ、バカは放《ほう》っておいて帰りましょ〜1」 ママさんは彼のことなどまったく気にしない様子で、ホイッスルをピルルル〜と吹いて歩き出す。 「わたしのことは気にしてくださいよお〜!」 水鉄砲で撃たれた愛《あい》の制服は、下着のラインが透けて見えるほどに水浸しになっていた.こうして、ママさんプレゼンツによるセクシータイムは幕を閉じたのである。 その日の夜、神山《かみやま》家の居間では、警視庁密着二十四時を熱心に見るママさんの姿があった。佐間太郎《さまたろう》はジュースを飲みながら、呆《あなも》れた様子でそれを見ている。居間の床ではメメがうつ伏せに寝転がって、クレヨンでお絵かき帳にお絵かきをしていた。 「なあオフクロ、もうああいうの止《や》めような。シャレになんないからさ」 「ちょっと待って!いま、イイトコだから!麻薬中毒患者の更生がっ!」 「ったく……」 彼は、母親を責めようと思ったが、心のどこかで引っかかっていた。 最近のパパさんは、確かに彼女が言う通り天国に行ってばかりでママさんの相手をしていない。そんな中で、彼女は彼女なりに寂しさを埋める手段を考えていたのではないだろうか。それが結果として極端だったとしても、ママさんなりの切ない退屈しのぎなのだ。 ---------------------[End of Page 46]--------------------- 「とにかくなあ、拳銃《けんじゆう》がオモチャなら最初っから言えよ!」 「だってママさん、人を殺す道具なんて持ったりしないもーん♪」 「人を殺す道具……ね」 顔の中心ばっかりに蹴りを入れていた人の言うことだろうか? 「それとさ、出会い系は止めろよ。そういうの、オヤジも悲しむぜ」 佐間太郎はママさんの方は見ないで、どこか的外れな方向を向いて.冒った。 「大丈夫。だって出会い系で出会ってるの、パパさんだもん」 その言葉を聞いた途端、速攻でママさんを睨みつける。 「なんだそれ!意味わかんねえ!どういうことP」 「だって最近お互いに刺激がないから〜。いっちょ出会い系に二人で登録して、フレッシュに出会ってみようかなあ〜なんてさ!もちろんメールだけで会ったりしないわよ!フレッシュだからね!フレッシュ!それに、一番大事なのは佐間太郎ちゃんだからヤキモチやかなくてもいいわよお〜。やーねー」 やいてねえよ、と言いたかったけれど、彼女のしていることのアホっぷりに言葉を発する気力すらなくなってしまう。パパさんに構ってもらってないとか言いつつ、わざわざ出会い系経由でメール交換してるではないか。 「心配して損した……」 ---------------------[End of Page 47]--------------------- 彼はソファに寝転がり、なんとなくメメの方を見た。彼女はお絵かき帳に、大きな黒い丸を描いていた。 「あ?メメ、それなんだ?」 「ん、わかんない」 「わかんない?」 自分で絵を描いているのに、それがなにを描いているかわからないとはどういうことだろう。 「ちょっと見せてみ」 佐間太郎はお絵かき帳を受け取ると、マジマジとその絵を見つめた。 大きな黒い円。ボーリング玉だろうか?しかし、よく見ると形が微妙にイビツになっているのがわかった。これは、まるで……。 「種か?」 「たね?」 彼女は不思議そうに彼の言葉を繰り返した。 「この形、植物の種にも見えないことないけど……」 そう言うと、メメは佐間太郎からお絵かき帳を受け取り、ウンウンと頷《うなず》きながら二階へと上がっていった。 ---------------------[End of Page 48]--------------------- 「そっか、種……。たねたね……」 彼女の小さな後ろ姿を見送りながら、彼は溜《た》め息《いき》に混ぜて言う。 「……変なやつ」 メメはチョコチョコと階段を上がり、自分の部屋のドアを開ける。 学習机の上には、スイカほどもある黒い球体が置いてあった。 「種……」 彼女はそう言って、球体をポンポンと叩《たた》くのだった。 ---------------------[End of Page 49]--------------------- 第二章久美子《くみニ》&佐間太郎《さゑたろう》の三畳ルーム 久美子《くみこ》が神山《かみやま》家に来てから、まだ半月も経《た》っていない頃《ころ》。 彼女は悩んでいた。それはもう、大いに悩んでいた。 彼女は大切なものを失った。その喪失感から抜け出せたわけではない。たまに夢で見てうなされることもある。それでも今、この神山家に居候《いそうろう》として住んでいる現状には満足していた。 彼女は布団《ふとん》の上に座りながら、髪の毛をかき上げる。今までとは違うシャンプーの香りがくすぐったい。他人の家に住むというのは、こういうことなんだなと感じた。 朝起きた時、自分がどこで眠っていたのかわからず戸惑うこと。家に帰って玄関を開けた時、今までの家とは違うにおいがすること。廊下から、誰《だれ》かの足音が聞こえること。温かい食事をみんなで食べること。 それらの全《すべ》てが久美子にとっては珍しく、新鮮だった。 ママさんは自分のことを家族だと言ってくれる。居候なんかじゃなくて、ちゃんとした家族なんだと。しかし、久美子はまだそう思えない。話では理解できても、心が対応できないでいる。いつも母親と二人きりで過ごしていた彼女にとって、大勢の家族との共同生 ---------------------[End of Page 50]--------------------- 活が当たり前になるには、まだ時間がかかるだろう。 美佐《みさ》から借りたパジャマからは、クローゼットの香りがした。どうやら美佐は、眠る時はいつもタンクトップにパンツだけらしい。ほとんど下着姿同然で眠る彼女のクローゼットには、使っていないパジャマがいくつもしまわれていた。 久美子はそれを借り、洗濯して身に着けた。何着か貰《もら》ったが、今着ているこの真っ白いものが一番気に入っている。今まで里…や赤などを着ることが多かった彼女にとって、真っ白な洋服はとても違和感があった。しかし、何度か着ているうちに体に馴染《なし》み、落ち着いて眠れるようになったのだ。 「こういう白いパジャマ着ると、髪の毛をちょっと明るくしたくなるなあ……」 久美子は誰に言うでもなく、そう眩《つふや》いた。今時、色の入っていない髪の毛なんて流行《はや》らないだろう。学校の生徒たちだって、軽く脱色したりしている。 髪の毛が黒いと、全体的に重い印象になってしまう。特に毛が多いというわけではないが、痩《や》せ細った彼女の体を考えると、もうちょっと軽い色でもいいのかも知れない. 「はあ……」 小さく溜《た》め息《いき》をつくと、少女は一緒に暮らす人々について考えた。 神山ビーナス、自称十八歳(絶対嘘《うそ》だ)。彼女はみんなにママさんと呼ばれている。やることなすことムチャクチャだが、心の底ではちゃんといろいろと考えているのだ。……と、 ---------------------[End of Page 51]--------------------- 思いたい。 彼女の胸を見る度に、久美子《くみこ》は小さく溜《た》め息《いき》をついてしまう。とにかく、それはもう、ファンタジックなまでに大きいのだ。ふたつのバスケットボールを胸に入れて歩いているようにさえ見える。あっちを向いてはプルルルン、こっちを向いてはタワワワンと、同性の彼女でさえ目のやり場に困ってしまう。 久美子自身、胸は大きい方ではない。成長期の途中で発育が止まってしまったかのような、枯れ枝のように細い手足。彼女は自分の体が嫌いだった。もっと素敵なスタイルに生まれてくればよかったなあと、この家に来てから何度も思った。 それにしても、ママさんはどうしてか久美子のことを「チョロ美」と呼ぶ。なぜそんな妙な名前で呼ぶのかはまったくわからない。初めて会った時から、そう呼ばれていたような気がする。彼女の性格からして、きっと深く考えてはいないのだろう。それにしてもチョロ美とは……。 そして神山治《かみやまおさむ》、年齢不詳。通称パパさん。昔は一緒にこの家に暮らしていたそうだが、今は天国に出張中で滅多に帰ってこないという。久美子は、まだパパさんと会ったことはない。 彼についての話を聞いていると、ママさんと負けず劣らず適当な性格だということがわかった。なにせ神様の息子に「かった。なにせ神様の息子に「佐間太郎《さまたろう》》」、天使に「テンコ」とつけるぐらいだから、年 ---------------------[End of Page 52]--------------------- 中酔っ払っているに違いない。それでもパパさんは、正真正銘の神様である。この世を操り、動かしている張本人なのだ。 それにしては物事を細かく考えず、だいぶ曖昧《あいまい》に仕事をしているように思えた。あるいは、それぐらいの肩の力が抜けていた方が、神様という大役をこなすのに丁度いいのかも知れない。次に神山美佐《みさ》、菊本高校《きくもとこうこう》二年生。長女であり、女神候補の一人である美佐は、とにかく学校と家では別人のように違うのである。学校で何度か見かけた時は、複数人の男子を連れ添って歩いていた。別の日に見かけた時は、一人で歩いているところを教師に告白されていた。 外での彼女は清楚《せいそ》で可憐《かれん》でおしとやかで、清潔感あふれる完壁《かんベへい》な美人だった。 それが家に帰ってくると制服を脱ぎ散らかし、ほとんど下着同様の姿で牛乳パックから直接グビグビとやる。もちろん腰に手を当て、飲み終わった後に「クハー!たまんねi!オイスィー!」と叫《さけ》ぶのである。さすがに初めてその姿を見た時は驚いたが、今ではそれが当たり前になっているのでなんとも思わない。 さすがにお風呂《ふろ》上がりに全裸で歩いているところを目撃した時は「服を着てください!」 と怒ったものだけれど。 女神候補の彼女は、とにかく男性にモテることを目的に修行しているのだそうだ。それが将来女神になる時にどんな役に立つのかはわからないが、さすがのママさんも久美子に ---------------------[End of Page 53]--------------------- そこまでのことは教えてくれなかった。 美佐《みさ》の弟で長男の神山佐間太郎《かみやまさまたろう》、菊本高校《きくもとこうころ》一年生。彼こそ神様であるパパさんの息子、神様候補の少年である。将来神様になるために、人間のことを知り、それを知識としてではなく実体験として吸収するために人間としての崖活を送っている。 それにしては普段からあまりヤル気がなく、ボケっとしていることが多い。時折神様の息子らしい行動をすることもあるが、本当に、ごくたまにだけだ。 天使のテンコも、菊本高校一年生。佐間太郎と久美子《くみこ》、そして彼女は菊本高校のクラスメイトだ。神山家にあって、一人だけ神様ではない。天使の彼女は、佐間太郎の監視や護衛をするために同日の同時刻に人間世界に生れ落ちたのだという。 それにしては佐間太郎に向かって暴力は振るうし、暴言は吐くし、あまり立場の差を感じることがない。だからこそ彼は彼女に心を許し、共に歩んでいるのだろうか……。 最後に神山メメ、小学五年生。他《ほか》の人たちも理解しがたいが、彼女こそ一番わけがわからない。普段から滅多に喋《しやべ》らないし、わかっているのかわかってないのか、姉の美佐の冨うことを鵜呑《うの》みにする傾向がある。久美子はメメが笑っているところを見たことがないし、逆に泣いている姿も知らない。 家に帰ってくると部屋に閉じこもって勉強をしているか、小さな瓶の中に飼っているクラゲを眺めている。小学生の女の子として、友達と外で遊んだりもせずに勉強やクラゲ観 ---------------------[End of Page 54]--------------------- 賞ばかりというのは少々不健康だとも思う。実際、「お外で遊ばないの?」と聞いたことがあるが、その時彼女はこう答えた。 「日焼けは乙女《おとめ》の敵ですから」 まだ子供とはいえ、立派な女神候補ということなのだろうか。もちろん彼女も美佐と一緒で、異性にモテることを修行としている。実際、ママさんから毎月もらう秘密のノートには、告白された回数と相手の名前が書いてあるという。久美チが実際に見たのは表紙だけだったが、確かにそんなようなことが記してあってもおかしくない.雰囲気を漂わせていた。ただの大学ノートのくせに。 「神山……久美子……」 久美子は家族の苗字《みようし》に自分の名前を合わせてみた。神山久美チ。それほど変じゃないけれど、背中がくすぐったいような、髪を切りすぎた日の翌朝みたいな恥ずかしい気持ちになる。それは、やっぱり、あの人物のせいなのだろう。 「神山……佐間太郎……」 彼女は気になる名前を声に出して言ってみた。一緒に住むようになって、理由もないのにドキドキしてしまうのは、彼がいるからに違いない。 なにせ、今まで異性と一つ屋根の下で暮らしたことすらなかったのだ。ただ.緒にいるだけで、少女の胸は痛いほどに高鳴る。 ---------------------[End of Page 55]--------------------- これは恋なのだろうか。それとも、ただの錯覚なのだろうか。この数日間、久美子《くみこ》はそればかり考えていた。佐間太郎《さまたろう》にはテンコがいる。二人とも認めないが、二人は両想《りようおも》いに近い関係にいるはずだ。どうして素直に結ばれないのかと言えば、神様と天使という関係が歯止めをかけているのだ。 「違うな……」 久美子は考えを改めた。神様と天使。立場の違いから想いが通じないのではない。 男の子と女の子として、ただ照れてしまうのだろう。もどかしい恋心の中で、二人はすれ違いを繰り返しているんじゃないだろうか。ああ、青春だ。そういうのって青春だ。 「まあこれ全部、わたしの妄想ですけどー!きゃーH」 彼女はベッドの上で頭を抱えながら悶《もだ》えた。くう、こういう想像ってドキドキする。だけど、どうしてドキドキするんだろう。ハラハラもする。なんでハラハラするんだろう。 「やっぱりわたしは、神山《かみやま》くんのことが……まだ……」 これこそが神山家に来た久美子の持つ、大きな悩みなのだろうか。いいや、違う。 彼女の悩みは、もっと切実なのであった。 「プハ、いいお湯だった……」 その声に、久美子はビクンと体を震《ふる》わせる。部屋に佐間太郎が入ってきたのだ。 「神山くん、じゃあわたし、入ってくるね」 ---------------------[End of Page 56]--------------------- 「ああ。いつもごめんね、先に入って」 「ううん、そんなことないよ。それじゃ、えと、うん」 これが二人の会話である。しかし、一切顔を合わせていない。それは意識して目を逸《そ》らしているのではない。合わせたくても合わせることができないのだ。 理由は、特殊なこの部屋の構造にあった。 もともとは一つの六畳間だった佐間太郎の部屋を、ママさんの意向により大改造したのである。 大改造と言っても、とてもシンプルな工事であった。部屋の真ん中に、あきらかになにも考えてない感じでベニヤの壁を設置するという、ただそれだけの工事であった。 しかしこの構造には大きな欠陥がある。ドアというのは、だいたい部屋の隅についているものではありませんか。つまり、ドアのある部屋と、ドアのない部屋の二つの部屋ができてしまったのだ。これにはさすがの佐間太郎も猛抗議した。するとママさんは、ベニヤの板に人が一人通れるぐらいの穴を開け「さ、ここから移動なさい!這《は》って移動なさい!チョロ美にはそれがお似合いよ!おほほほほ!」と高笑いを炸裂《さ.、れり》させた。彼女のために居住スペースを作る優しさを見せたかと思うと、今度は這って移動しろとのお言葉である。なにがなんだか。 結局、佐間太郎と久美子の部屋はこんな感じになった。 ---------------------[End of Page 57]--------------------- 久美子ε会都屋メ 》 一 し� 畳 三 の ひとつの部屋を無理やりベニヤ板で分けただけなので、当然声も筒抜けだ。それどころか、隣で寝ている者の寝息さえ聞えてきてしまう。最初、この部屋を見た時に佐間太郎《さまたろう》もテンコも、なぜか発案者であり工事責任者のママさんでさえ怒った。 「ちょっとママさん!これ、なんですか!ダメじゃないですか!(頭から湯気を出す ---------------------[End of Page 58]--------------------- テンコ)」 「あら本当!これじゃあ、チョロ美に佐間太郎ちゃんが襲われちゃう!ねえ、どうなってるのよ佐間太郎ちゃん!(涙を流しながら佐間太郎に抱きつくママさん)」 「オフクロが工事したんだろ!なんで俺《おれ》に言うんだよ!(必死でママさんから逃げようとするが、ちょっと本気で抱きつかれているのでなかなか逃げ出せない佐間太郎)」 そこで急遽《きゆうきよ》家族会議が行われ、久美子《くみこ》の寝る場所をどうするかという話し合いが行われた。テンコの部屋で一緒に寝る、あるいはメメの部屋にお世話になる、もしくはリビングで寝るという線が濃厚になったが、「せっかくママさんが工事してくださったんですし、他《ほか》の誰《だれ》かの部屋にお邪魔するのも悪いんで……あそこでいいです」という久美子の意見により三畳ルームに住むことになったのだ。 彼女の吾葉の裏には、彼と一緒にいたいという、したたかな恋心があったのではあるまいか。 というわけで、お風呂《ふろ》から上がってきたばかりの佐間太郎が、ベニヤの板一枚の向こうでパジャマに着替えている音が聞えてくる。久美子は着替えるのが終わるのを待って、下着とパジャマを「チョロ美用」と書いてあるダンボールから出した。 彼女は三畳ルームにいる時は、なるべくパジャマを着るようにしている。それは、久美子がグウタラだからではない。初めてこの家でお風呂に入り、パジャマに着替えて部屋に ---------------------[End of Page 59]--------------------- 戻ってきた時、佐間太郎《さまたろう》が彼女を見ながら言ったのだ。 「うわ……かわいい……」 .言った直後に、しまった、という顔になった。思わず口から出てしまった、という感じの一言だった。久美子《くみニ》はそれが嬉《うれ》しくて、なるべくパジャマでいようと心に決めたのだ。 佐間太郎にカワイイと思われたい、そんな乙女《おとめ》心を佐間太郎は知らない。いくらパジャマでいても、ベニヤ板を挟んでしまっては滅多に見る機会がないからだ。それでも久美子はパジャマを着続ける。なんて健気《けなげ》なのでしょう。 「それじゃ、お風呂《ふろ》入ってきます」 彼女はベニヤに開けられた穴から、四《よ》つん這《ば》いになるようにして佐間太郎のスペースに出てくる。手にはタオルと新しいパジャマ。 「うん、入ってきて……ください」 無防備にベッドに寝転がっていた彼は、不意に目に飛び込んできた久美子の姿にドキドキする。なにせ美少女が四つん這いになってコチラを向いているのである。そんなもん、誰だって胸が高鳴るっちゅーねん、なのだ。 久美子は脱衣所に到着すると、着ていたパジャマをカゴの中に入れてお風呂場へと入った。 「あ」 ---------------------[End of Page 60]--------------------- 「へつ?」 中にはシャンプーハットを使って頭を洗っているメメがいた。 「わわ、ごめんね!誰もいないと思って!」 「うん」 慌《あわ》てる久美子に対して、まったく冷静なメメ。どちらが年上かわかったものではない。 「出たら教えてね、そしたら入るから」 すぐに浴室から出て行こうとする彼女を、メメは小さな声で引き止める。 「いい」 「え?なに?」 「一緒に入る」 「……う、うん」 小学生の少女にそう言われては断ることはできない。いや、それはスケベな心からではなく、彼女の申し出を断るのはかわいそうだからである。まったくもう、そういう百合《ゆり》的な意味じゃないんだってば。 「じゃあ、お風呂に入って待ってるね」 「うん」 久美子は湯船からオケを使ってお湯を汲むと、それを自分の体にかけた。それからバス ---------------------[End of Page 61]--------------------- タブの中に入り、頭を泡立てている小さな女神をなんとなく眺める。 「いつ取れるかなあ……」 メメはゴシゴシと頭を洗いながら、そう言った。 「なにが?」 「これ」 チョイチョイと泡のついた手でシャンプーハットを指差す。小学五年生でシャンプーハットを使わなければ頭を洗えないというのは、一般的な考え方からすると少し変であろう。 「ねえメメちゃん。誰《だれ》にも言わないって約束できる?」 「え?」 意外な答えに、メメは頭を洗う手を止めた。 「なに?」 「実はね、わたし……」 ポチャン、と天井から水滴が落ちて久美子《くみこ》の肩に当たる。 「いまだにそれがないと頭、洗えないんだ。内緒だよ?」 それがないと、洗えない。メメは口の中で小さく繰り返す。もしかして、と彼女の方を振り返った。 「シャンプーハットつ・」 ---------------------[End of Page 62]--------------------- 「うん、そう」 久美子は困ったな、という顔をして笑う。メメは泡が入らないように小さく開けた目で、彼女のそんな笑顔を見つけた。 「変なの」 「なんで?変じゃないよ。だって、口に染みて痛いじゃない、シャンプーって」 「大人なのに」 「大人じゃないよ。まだ高校生だもん。それに、もしわたしが大人だとしてもね、大人になっても痛いものは痛いんだよ」 「そっか……」 メメは久美子の告白を聞いて、安心したようにシャンプーを再開させた。 やっぱり言わなきゃよかったかな……と思いながら、久美子は鼻の下まで湯船に浸かる。 ミルクの香りのする白いお湯が、心地よく体に染み渡っていくのを感じた。 その時、ガラガラガラという音と共に脱衣所から冷たい空気が滑り込んできた。驚いて音の方を見ると、同じように驚いた顔でテンコが立っていた。驚きのあまり、頭のてっぺんからプシューと蒸気を噴き上げながら。 「わ!な、なにP“ごめんっ!」 まるでさっきの久美子と同じである。慌《あわ》てて出て行こうとしたところを、メメに引き止 ---------------------[End of Page 63]--------------------- められた。 「いいよ、一緒に入って」 いや、三人はさすがに狭いだろ。そう思ったが、否定するのもかわいそうな気がしてテンコは答えに戸惑う。 「えっと、一緒に入ります……か?」 今度は湯船の中から久美子《くみこ》が言った。もちろんそれは、ぜひ入ってください、というトーンでないことは彼女にだってわかる。しかし、二人に誘われては断るに断れない。 「う、うん……」 テンコはそう言うと、シャワーで体を流してから湯船の中に浸かった。 一人で入れば足が伸ばせる程の大きさのバスタブも、さすがに二人だと狭い。体育座りをするように膝《ひざ》を抱えながら、久美子とテンコは一緒のお風呂《ふろ》に入る。 「あ、どうも……」 「どうもです……」 同い年の女の子と一緒に入浴するなんて初めてのことだ。どうしていいのかわからず、ひとまず挨拶《あいさつ》をしてみたが、それも数秒で終わってしまった。 後はさり気なく視線を逸《そ》らしつつ、メメの洗髪の音に耳を傾けるしかない。無言で向き合う二人。しばらく時間が経っても、その構図は変わらない。このままではなにも書くこ ---------------------[End of Page 64]--------------------- とがなくなってしまう。 それでは、ここで二人の考えていることを読者のみなさまだけにお教えしましょう。会話をしてくれないのだから仕方がない。まずは久美子である。それでは、どうぞ。 「ああ、やっぱりテンコさんて胸がないって感じじゃないなあ……。わたしもあれぐらい欲しいなあ。それに顔もカワイイし。こういう顔が男の子は好きなんだろうなあ。わたしなんて表情が暗いってよく言われるし。美人系よりカワイイ系の方が好きなんだろうなあ……。って!自分が美人って言ってるわけじゃないですからね!あくまで、ジャンルにしたらってことですよ!ジャンルにしたらってことで!でも、その、美人ってジャンルってことじゃないですからね!」 平静を装いつつも、頭の中では両手を振って「自分は美人じゃないのです!」と否定する彼女であった。続きましてはテンコである。どうぞ。 「はあ。やっぱり久美子さんて細いなあ……。普段からあんまり食べないからかなあ。あたしだってダイエットしなくちゃって思ってるけど、ゴハンが美味しいからつい食べちゃうんだよなあ。それに、胸も結構あるし。なんでそんなに細いくせして胸あるのP前に一緒にプール行った時はこんなに目立たなかったはずなのになあ。もしかして成長なのP”発育してるのP…やん!そんなのノウ!あたしも胸だけ発育したい!それに久美子さんてば美人だし!あたしカワイクないからやだ!もう!」 ---------------------[End of Page 65]--------------------- 結局二人とも気にしているのは胸を中心としたことなのであった。お互いに湯船から少しだけ露出した胸元を凝視しながら、ウムムムと物思いに耽っている。なんだか妙な光景だが、ポラロイドで一枚撮《レロ》っておきたいものだ。 最後に、一応メメが考えていることもお伝えしておこうか。一応。どうぞ。 「ごしごしごし。ごしごしごし。かゆい。ごしごし。あ、かゆいの直った。ごしごし。クラゲって骨あるのかな。骨折するのかな。ごしごし。あ、目に染みた……。ぐすん」 スマナイ。別に取り上げなくてもよかった気がすごいしている。 「テンコさんて、神山《かみやま》くんのことが好きなんですよね?」 「ええええええええっP」 突然の久美子《くみこ》の一声に、テンコの頭からは豪華に湯気が上がる。まるで機関車だ。 「な、ななな、なんでそんなことP”そんなことないです、だって、あいつ、神様候補だし、あたし、天使だし、監視するのがお仕事だし!そもそも別に、好きじゃないし、むしろ嫌いだし、毎晩ワラ人形で呪《のろ》いかけてるし、さっさとハゲうとか思ってるし!」 テンコよ、その否定はわざとらし過ぎるのではないか。あまりにも否定し過ぎて溺《おほ》れそうになっている彼女を見て、久美子はクスッと笑った。 やっぱり、思った通りだ。絶対に彼女は彼のことが好きなのだ。そうでなければ、溺れそうになるまで必死に否定など……あ、溺れた。 ---------------------[End of Page 66]--------------------- 「ぶくぶくぶく……たしゅけて……」 「ちょっとテンコさん!テンコさん!」 どうすればお風呂《ふろ》で溺れるのだろうと思いつつ、久美子はテンコを救出する。といっても、手を掴《’」刀》んでちょっと引っ張るだけなのだが。彼女は肩で息をしながら、恨《うら》めしそうに久美子のことを見た。 「きゅ、急にそんなこと言うから、その、なんていうか、あまりの瀞れ鵡にビックリしましたよ、アハ、アハ、アファファファファ」 笑い方も不自然である。これほどまでに動揺が隠せないというのも珍しい。これは、彼女が天使だからなのだろうか。それとも、ただ単に単純だからであろうか.、 「だけどテンコさん、本当にテンコさんは神山くんのことが好きじゃないんですね?」 「う、うん。当たり前じゃない。そうよ、そうですよ」 「じゃあ……。もしわたしが……」 久美子がそう言い掛けると、テンコの表情がサッと変わった。お願い、それから先は言わないで。今までずっと曖昧《あいまい》にしていたことを、ハッキリさせないで。そう言っているようだった。 「わたしが……」 「はいはいどうもー!女神のママさんこと神山ビーナスでーっす!みなさん、ピチピ ---------------------[End of Page 67]--------------------- チしてますかー!オー、ママさんはピッチピチー!」 時が止まった。その、殺人的に能天気なママさんの登場に、バスルームは真空状態になってしまった。そんな中でもメメは冷静にシャカシャカと頭を洗い続ける。 どれぐらいの時間が経《た》っただろう、ようやく正気に戻ったテンコが叫《さけ》んだ。 「なんでママさんまでいるんですかー!」 「あらー!だってみんなで仲良く裸のお付き合いをって思って、ママさんの悪巧《わるだく》みでみんなをここに集結させたのよーρ…美佐《みさ》は勘付いたらしくて部屋で寝てるけどねー!」 それにしてもママさんは仁王立《におうだ》ちである。バスタオルで体を隠すとかして欲しいのだが、誰《だれ》の視線もまったく恐れずに、腰に手を当て足を開いているではないか。 「あの、せめて、少しは恥じらいを……」 久美子《くみこ》はママさんの体から視線を逸《そ》らしつつ、遠慮がちに言った。 「なによチョロ美。これはね、神山《かみやま》家の伝統的行事なのよ?家族たるもの、裸の付き合いでナンボでしょ?背中を流して初めて心がひとつになるのよ!」 「そんなこと今までしたことないじゃないですか!」 ママさんの自信満々の発言に、テンコが反論する。彼女の言う通りなら、ママさんもまったくもって適当な性格だ。 「テンコちゃん!ママさんはね、裸の大切さをみんなにわかってもらいたくてね!」 ---------------------[End of Page 68]--------------------- 彼女はそう言いながらズカズカと湯船に近づいてくる。隠そうとする気はないので、視線の低い二人にはママさんのあんなものやこんなものまで丸見えである。世界丸見え。 「だから隠してください!隠してくださいー!」 「おっほっほ。あれね、大人の女の魅力に自信喪失ね17」 「じゃなくて!じゃなくてー!」 必死でママさんに訴えるテンコだが、彼女はまったく反省する気がないようだ。 「ふう、終わった」 メメはメメで洗髪を終えると、まったく躊躇《ちゆうちよ》することなく二人の入っている湯船に浸《つ》かる。 「メメちゃん!狭いでしょ!三人で入ったら狭いでしょ!」 「そ、そうよ。わたし出るから、ね?」 テンコと久美子が言うのも聞かず、メメは肩までジャポ!ンと入ってしまった。それを見たママさんは、羨《うらや》ましそうに言う。 「いいなあ!ママさんも入る!肩まで入るう〜!」 言うのと同時に、ジャンプしたかと思うと三人の中心にダイブした。ザプーン。 「うわああああ!狭いいいいい!」 叫ぶテンコ。 ---------------------[End of Page 69]--------------------- 「苦しいですうううう!」 泣きそうになる久美子《くみこ》。 「いーち、にー、さーん、し!」 冷静に百まで数え出すメメ。 「おほほほほ!これこそ裸の付き合いよね!どうチョロ美!ママさんの胸、ちゃんと当たってるPその大きさを感じて敗北感に包まれてるPそれじゃ、パブを十個ほど追加!ブクブクブクブク!ゲホゲホ!むせる!パブ十個はむせる!おほほほほほほほほほゲホゲホ!」 なんだかよくわからない勝利を手にしているママさん。四人の声は、狭いお風呂《ふろ》場に大きくこだまするのであった。その頃美佐《ころみさ》は、ベッドの上で風呂場から聞えてくる絶叫に耳を澄ませていた。 「……アホね」 そう眩《つぶや》くと、いつも通りの下着姿で大きくアクビをした。 三畳ルームのドアが開かれ、顔を赤くした久美子が転がり込んでくる。佐間太郎《さまたろう》は慌《あわ》てて彼女を抱き起こした。 「どうしたの19”顔、真っ赤だよ?」 ---------------------[End of Page 70]--------------------- 「だ、大丈夫です。ちょっとその、のぼせまして……」 頼りない足取りで、なんとか立ちhがろうとするが、よほど具合が悪いのか、フラフラとしている。 「久美子さん、お風呂場でなんかあったの?」 「い、いえ。その、家族の絆《きずな》をですね……団結をですね……」 うわ言のように繰り返しながら、四《よ》つん這《ば》いになって穴に入ろうとする。しかし、頭をゴツゴツとぶつけるだけで、ベニヤの向こう側に行くことができない。 「あのさ、俺のベッドでちょっと休めば?」 「はい……そうさせてもらいます……」 肌の白い彼女が頬を赤らめていると、薄っすらとしたピンク色になっていてとてもキュートである。しかものぼせているせいで、瞳《ひとみ》がウルウルとしているのだからたまらない。 さらに汗ばんだ肌はパジャマを濡《ぬ》らし、彼女の体のラインを強調させる。 つまるところ、エロいのだよ。かなりな。 「わたし、なんだかボーっとしてて、下着を持っていくの忘れちゃったんですよね」 意識を朦朧《もうろう》とさせているせいか、そんなことわざわざ言わなくてもいいのに言ってしまう久美子であった。 シャンプーと女の子の香りが混ざったものが、佐間太郎の鼻をコチョコチョと刺激する。 ---------------------[End of Page 71]--------------------- これは、なんなんだ。これがあれか、噂《うわさ》に聞くヘロモンか。 「じゃあ、寝かせてもらいますね……わ!」 バランスを崩した彼女は、彼の体に重なるようにしてベッドに倒れこんだ。突然のことに久美子《くみこ》を守ろうと、佐間太郎《さまたろう》は思わず力強く抱きしめてしまう。柔らかい肌のすぐ下に、細くて頼りない骨を感じた。二人は体を重ねたまま、ベッドに倒れこんだ。 久美子の顔がすぐ近くにあることを佐間太郎は意識してしまう。 「やんっ……。ごめんなさい、神山《かみやま》くうん:…」 なぜ「く」と「ん」の問に「う」が入るんだ。せめて大きい「う」にしてくれ。小さい「う」だと、なんだかも1我慢できそうになくなってしまうではないか。下着、着けてないんですよねっ・この薄いパジャマの下は、いわゆる素肌と呼ばれるものなんですよね?「テンコさんがね……」 「テンコP」 思いもよらぬ名前の登場に、彼は我に返った。危ない危ない、もうちょっとで十六ノットで急発進するところだった。 「神山くんのこと、好きじゃないんだって」 テンコが俺《おれ》のこと、好きじゃない……。 第三者からそういう意見を聞いてしまうと、完全な事実のように感じる。 ---------------------[End of Page 72]--------------------- そうか、テンコは好きじゃないんだ、俺のことが……。 「だから、わたしね、言ったの」 「なんて?」 久美子は佐間太郎に覆いかぶさったまま、耳元で囁《ささや》いた。 「だったら、わたしが……」 「わた、わた、わたしがρ」 「神山くんのこと……」 「くんのことP」 「おげえ……」 吐いた。 読者諸君。恋愛小説に出てくる女性キャラクターが吐かないというのは大間違いである。 吐くよ、久美子は。 「ぐう……ぐう……」 しかも寝てるよ。寝ゲロだよ。でも大丈夫、ほんのちょっとだから。ほんの少ししか出してないから。 「うう……俺、この状態でどうすればいいんだろう。ま、いっか。明日は日曜だし」 佐間太郎《さまたろう》は、耳元に彼女の優しい吐息《といき》と、なんかモッサリしたものを感じながら、朝が ---------------------[End of Page 73]--------------------- くるのを待つのであった。いろいろと大変なんだ、神様の息子も。 久美子《くみこ》は夢を見ていた。暖かい光に包まれる夢。それは、いつかの夜の出来事とそっくりだった。いつか、大切な人を思って祈った夜と同じ、それは安らかで心地のよい光だった。 目が覚めると、いつの間にか彼女は自分の布跡の中にいた。 戦場のようなお風呂《ふろ》から逃げ出したものの、それから後《あヒ》の記憶がない。ここで寝ているということは、なんとか自力で部屋に辿《たど》り着けたのだろう。 「う、もしかして神山《かみやま》くんに迷惑かけたかも……」 そう思い、布団の中からモゾモゾと外へと出る。その時、自分がド着をつけていないことに気づいた。 「うそ、やだPどうしてP」 お風呂に持っていくのを忘れたからである。ただ、それだけのことだ。しかし、昨Hの記憶がない彼女にとっては、それは大きな謎《なぞ》となった。 「神山くんに……聞いてみようっと……」 久美子はベニヤの穴から顔を出すと、既に目を覚ましている彼に向かって声をかけた。 「あの……神山くん……」 ---------------------[End of Page 74]--------------------- 「あ。久美子《くみこ》さん……」 佐間太郎《さまたろう》は長袖《みもらへ》のTシャツに、ジーンズをはいていた。どこかに出かけるのだろうか。 「あのね、その、昨日のことわたし、覚えてないんだけど……。わたし、なにか、した?」 久美子は下着をつけていない胸を、パジャマの上からギユッと押さえた。 「なにか……って……」 彼は昨日のことを思い出す。なにか、した。耳元に、モッサリしたもの出された。 「あはは、いやその、なんにもしてないよ」 さすがにそんなことを彼女に言えるわけがない。あの後、彼女を柵匝に寝かせて、瀞れティッシュで耳を拭《ふ》いたなどと言えるわけがないのだ! しかし、久美子は佐間太郎の様子がおかしいことにすぐ気づいた。 どうしよう、もしかしてわたし、本当に、変なことしちゃったのかも……。 久美子はブラジャーだけでなく、パンツも履いていないことを確認する。どうして、どうして下着をつけていないのかしらH 「ねえ、神山《かみやま》くん。わたし、なにかしたでしょ?大丈夫、傷ついたりしないから。だから、ちゃんと言って?ね?覚えてないわたしが悪いんだもん」 いや、傷つくだろ。まさか、「ちょっとした寝ゲロ吐いたよ」なんて言ったら、それはもう傷つくだろう。男・神山佐間太郎、さすがにそれは死んでも言えないのだった。 ---------------------[End of Page 75]--------------------- 「ごめん、久美子さん。俺の口からは言えない。もしかして、久美子さんが自分で思い出す時がくるかも知れないから、それまでは……ね?」 言《い》い難《にく》そうに彼は眩《つぶや》いた。それを聞いた久美子は、こりゃ大変なことが起こったゾと確信する。ええい、しかしやってしまったことは仕方ないのだ。クヨクヨしたりオロオロしたりドキドキしていても意味がない。彼女は、もう細かいことにこだわらないことにした。 なにか起こっているのなら、もう彼に遠慮することもないのだ。 「ねえ神山くん、どこか出かけるの?」 「えつ・うん。進一《しんいら》のお見舞い」 「お見舞い?どうかしたのつ・」 「ミニバトにはねられた」 さすがにママさんが運転するミニバトに、とまでは言えなかった。 「わたしも行っていいつ・一緒に行きたい」 「え?いいけど……。その……」 彼は、言い難そうに久美子に告げる。 「エチケット袋、持っていこうね」 「……は、はい?」 彼女にとって、ますます謎《なぞ》は深まるのであった。遠足気分なのかしら……つ・ ---------------------[End of Page 76]--------------------- 着替えるのに時間がかかるからと、久美子《くみこ》は先に佐間太郎《さまたろう》に病院に行ってもらうことにした。待たせるのは悪いし、一緒に家から出るところをテンコか誰かに見られたらなにか言われるかも知れない。 どんな服がいいか散々迷ったあげく、黒のニットとチェックのミニスカートで出かけることにした。ピッタリとしたニットは体のラインが少し出てしまうけれど、昨晩になにかが起こったらしいので、これぐらいはいいだろう。まあ、なにが起こったのかはまったく知らないのだけど(しかも、知らない方が幸せなのだけれど)。 着替えを終え、玄関から道路へ出ようとすると、猫の額ほど小さな神山家の庭で背中を丸めて穴を掘っているメメが見えた。 「メメちゃん、なにしてるの?」 彼女が気になって声をかけると、メメはビクンッと体を震《ふる》わせ、恐る恐る久美子の方を振り向く。 「種を蒔《ま》く……」 「種?」 少女の表情には、どこかしら怯《 ぴ》えがあった。久美子は不思議に思って、彼女と同じように地面にしゃがみ込み、視線の高さを合わせる。 ---------------------[End of Page 77]--------------------- 「どうしてそんなに怖がってるの?なにか隠してる?」 「う……」 メメは図星を突かれたようで、何度か空中に視線を泳がせた。久美子は小さな宝箱の鍵《かぎ》を丁寧に開けるようにして、彼女に優しく語りかける。 「大丈夫、誰にも言わないから。教えて?ねえ、隠してるでしょ?わたしはシャンプーハットの秘密教えたんだし、メメちゃんも教えてよ、秘密……」 表情こそ変わらないものの、メメの顔に汗が浮かんでいるのがわかった。その様子を見て、久美子は自分の勘が当たっていることを確信する。それにしても、そんなに不安になることはないのに。小学生の隠し事なんて、大したことではないに違いない。 「捕まるかな?」 「捕まるP”メメちゃん、なにしたの19…」 メメの意外な返答に久美子は驚いた。捕まるだなんて、なにか悪いことでもしたのだろうか。心臓の鼓動が速くなるのがわかった。 「拾った……」 申し訳なさそうにメメが一枚の紙を取り出す。それはお絵かき帳の一ページだった。久美子は紙を受け取ると、マジマジとそこに描かれた絵を観察する.、 「なーに、これ?」 ---------------------[End of Page 78]--------------------- 紙に描かれたのは、ただの黒い丸だった。メメの画力はそれほど幼稚《レ?つひ�》ではないはずだ。 だから、この絵にはキチンと意味があるに違いない。 「たね」 彼女は下を向いたままそう言った。なるほど、それで久美《くみこ》’は理解する。メメは道に落ちていた種を拾い、それを蒔《ま》こうとしているのだ。しかし、普段からママさんや学校の先生に「落し物は警察に」と言われているので、そのことを気にしているのだろう。 「そっか。種か。確かに種だね。拾ったって、種のこと?」 「うん」 既に泣きそうになっているメメの頭に手を乗せ、久美子はポンポンと何度か軽く叩《たた》いた.「大丈夫、種を拾うぐらい泥棒にならないよ。もしなっても、神様は見逃してくれる」 「パパが?」 「え?」 久美子には、メメの言っていることがわからなかった。しかし、落ち着いて考えてみればメメの父親は神様なのだ。間違ったことは言っていない。 「ああ。うん。パパさんも、きっと許してくれる。この絵からすると……球根みたいにも見えるけど……」 彼女はクレヨンで描かれた絵をもう一度じっくりと見た。イビツな円は、見方によって ---------------------[End of Page 79]--------------------- はどんな形にも見えるからなんとも言えない。しかし、しばらく見た後《あと》に久美子はひとつの結論に辿《たど》り着いた。もしかして、これは、あの種ではないのかと。 「ねね、メメちゃん。これ、朝顔だよ」 「朝顔?」 もちろんメメは朝顔の種を知らないわけではない。あの常識外れの大きさに対して、疑問をもっているのである。だが、そうとは知らない久美子は、そこに描かれた形だけでほぼ断定に近い言い方をしてしまった。 「うん、そう。朝顔。だから、そんなに掘らなくても平気だよ?」 メメが掘ったのは、ボーリング玉がスッポリと入るぐらいの深さの穴だった。もちろん、彼女はあの巨大な球体を想定しての穴掘りをしたのである。 「でも……大きな種だから……」 「ううん。いくら大きいって言っても、それは大き過ぎだよ。もっと小さくても、もつと浅くても平気だから。ほら、お姉ちゃんが掘ってあげる」 「お姉ちゃん……」 「あ。なんでもないっ」 久美子は急に恥ずかしくなって立ち上がった。子供に対して自分のことを「お姉ちゃん」 と言っただけなのだが、メメは「新しい家族としてのお姉ちゃん」と認識してしまったよ ---------------------[End of Page 80]--------------------- うだ。自分からそんな風なことを言ってしまったことが、なんだか酷《ひレ甲》く図《ずらずう》々しいように感じてしまい、彼女は顔を赤くして庭から出ようとする。 「あ。その、とにかく、もっと浅くても平気だから!」 そう言って久美子《くみこ》は足早に去って行った。 「お姉ちゃん……」 メメはその言葉の響きが嬉しくて、もう一度繰り返してみた。 「あ。種……」 それから種のことを思い出し、今まで掘った穴を埋めることにした。久美子が言うには、もっと浅い、小さな穴で十分だということだ。彼女は小さな指を地面に突き刺し、数センチほどの穴を作った。そこに、庭の隅に置いてあったボーリングKほどの大きさのある球体を乗せると、物置からゾウさんのジョウロを出してチョロチョロと水をかけた。 もちろん球体は土の中から99%露出しており、これで発芽するのかまったくの謎《なぞ》である。 そもそも、こんな巨大な朝顔の種が存在するかどうかもわからないでいるのだ。 「新しいお姉ちゃん……またできた……」 そんなこととは露《つゆ》知らず、メメは久美子に言われた通りの大きさの穴に入れた種に向かって水をかけ続けた。朝顔と言っていたので、落ちていた枯れ枝を球体の近くに突き刺すことも忘れなかった。ツルが伸びても、きちんと枝に巻きつくに違いない。 ---------------------[End of Page 81]--------------------- 「お姉ちゃん……」 彼女はそう眩《つぶや》きながら、手洗いとうがいをして自分の部屋に戻って行った。 冬の乾いた風にスカートを揺らせながら、久美子は病院へと向かう。 もう彼は随分と先に行っているはずだ。走ればまだ追いつくかなと思いながら、彼女は歩調を速める。神山《かみやま》家の前の道を通り、最初の十字路を曲がると、誰《だれ》かにぶつかった。 「ごめんなさいっ!」 反射的に頭を下げると、その相手は「あはは」と笑う。 「俺だってば」 「あ。神山くん……」 目の前には、鼻の頭を赤くした佐間太郎《さまたろう》が立っていた。寒そうに体を縮めているところを見ると、ずっとここで待っていたらしい。 「うわあ、だったら、もっとごめんなさい1先に行っててって言ったよね?」 「言われた。だけど、ほら、せっかくだから一緒にって思って……」 彼の言葉を聞いて、思わず久美子は笑顔になってしまう。 「あ。笑ってる……」 鼻をすすりながら佐間太郎は言った。それじゃあまるで、彼女が笑わないみたいだ。い ---------------------[End of Page 82]--------------------- や、確かに以前はあまり笑う子ではなかったけれど。 「なんかさ、久美子《くみニ》さんて最近変わったよね?」 「え?そう?」 「うん。明るくなった。うちに来るまでは、笑ってる顔なんて滅多に見たことなかったしね」 「そっか……。そうですかね、そうですよね。うん。そうかも」 二人はそんな会話をしながら、進一《しんいち》の入院しているという病院へと歩き出した。住宅地を抜け、商店街を通り、駅を越える。 「あと、意外に天然だってことがわかった」 「なんですかそれP“そ、そんなことないです……」 「だって一人で勝手に盛り上がったりしてる時あるじゃん?突っ走ってて……」 そうだろうか?久美子は胸に手を当てて日頃《ひごろ》の自分を思い出してみる。う1む、確かにそういう一面がないこともない。寝る前に、もしもシリーズを空想したりするのだが、その時につい「えへ」と笑ってしまうのを彼に聞かれているのかも知れない。なにせベニヤ一枚の関係なのだ。 ちなみに「もしもシリーズ」とは、「もしも神山《かみやま》くんとわたしが付き合っていたら」とか「もしも神山くんと新婚さんだったら」という乙女《おとめ》らしい空想である。これが男子であ ---------------------[End of Page 83]--------------------- れば「もしも久美子さんが裸エプロンだったら」などとエロい妄想にいってしまうので、久美子が純粋な少女でよかったよかった。まあ、本当に純粋かどうかは置いておいて。 「そういうの、嫌いですか?」 「嫌いもなにもないけど……面白いって思うよ」 「な、なるほど……」 面白い……。そんなふうに誰《だれ》かに言われたのは初めてだ。もしかしてこれは、肯定的か.否定的かで言えば、肯定的なのではないだろうか。このままもっと「面白い久美子っち」 というイメージを印象付ければ、なんかこう、上手《・つま》い感じで話が進むかも知れない。 彼女はそんな淡い期待を胸に、ちょっとだけ冒険して.昌ってみた。 「好きな人がいるから、かも……。な、なんちゃって!です!なんちゃってですからね!なんちゃって星人参上.、目からなんちゃってビーム発射!なんちゃって暴人はメロンを皮まで食べるのです!パクパクパクパク!なんちゃって11”」 「……へえ……」 失敗だった。言わなければよかった。少女の反省は、世田谷《せたがや》の商店街の雑踏に消えることなく、ホワンホワンと彼女の頭の周りを浮かび続けるのだった。 「あ、メロンを皮まで食べるって、うちのオフクロと同じだね!」 「……そう、ですか」 ---------------------[End of Page 84]--------------------- 「う、うん……」 佐間太郎《きまたろう》のフォローは、残念ながら空振りに終わったよ。 病室に到着すると、二人を見つけた進一《しんいち》が早速大声を張り上げた。 「おー!退屈してたんだよ、いらつしゃーい!むしろウエルカム!」 大部屋であるにもかかわらず、彼は一人でベッドに寝そべっている。どうやら、今は他の入院患者はいないらしい。 「お前、相変わらず元気だな。なんで入院してんのかわかんねえ」 「バッカ、車にひかれたんだぞ?そりゃ入院するよ。ただの骨折じゃねえぞ、複雑だの粉砕だのだぞ、だの、だぞ?」 彼はそう言いながら、佐間太郎の顔に、自分の顔を近づける。ちょっと嫌だ。 「わかったから顔を近づけるな」 「だの?だぞ?」 久美子《ほかくみこ》はそう言いながら、佐間太郎の顔に、自分の顔を近づける。 「久美子さんまでやらなくていいから……」 本当は嬉しいくせに。 「昨日までうちの学校の男子が入院してたんだけどさ、さっき退院して行ったよ。ま、俺 ---------------------[End of Page 85]--------------------- も明日になれば退院だけどな。フフン」 「うちの?菊本高校《きくもとこうこう》?」 「そうそう。なんでも、女の子を守ってナイフで刺されたとかいってさ。いって、凡〜」 ミニバトに突っ込まれたのも十分痛そうだが、進一はそう言って顔を歪《ゆが》める。自分の体の中に金属が差し込まれたところを想像したのだろう。 「でもさ、変なんだよ。ボケーっとしちゃってさ。あれか、刺されたショックかね?一言も喋《しやべ》らねんだよなあ。いっくら話しかけてもだぜ?悪魔に魂でも抜かれたんじゃねえの?」 彼の言葉に、佐間太郎と久美子は顔を見合わせて苦笑《にがわら》いをした。 「退院する時さ、ショートカットの女の子が迎えにきてさ。なんでもそいつのクラスメイトらしいんだけど、これがまた美人でね!思わず電話番号聞いちゃったよ!にひひ。 同じ学校ならチャンスはいくらでもあるからな!」 「なんのチャンスですって?」 その声に、進〔は顔面蒼白《多こつはく》になった。病室のドアの方を見ると、お見舞いに持ってきた花束を握り潰《’」》している愛《あい》がいた。しかも鬼の形相《マロようそう》。 「進一くん、入院中にナンパとはゴキゲンなことしてるのね?」 「してないよ!してないってば!そりゃ誤解だ!」 ---------------------[End of Page 86]--------------------- 「誤解じゃないでしょ?確かにわたしと進一《しんいち》くんは付き合ってないけど、でもそれは浮気《しんいち,浄「誤解じゃないでしょ?確かにわたしと進一くんは付き合ってないけど、でもそれは浮きふうみ》よね?カテゴライズしたら浮気寄りよね?浮気風味《ふうみ》よね?浮気テイストよね!」 「してない!してない!ここの二人が証人だ!なあ佐間太郎《さまたろう》、久美子《くみこ》さん、してないよなP」 「した」 「したそうです」 「ひいいいいいいいいい1」 「もう、進一くんなんて絶交だからねー!女は星の数ほどいるとか言うけど、星ってのは手が届かないものなのよー!」 ちょっと上手《うま》いことを言いながら、愛《あい》は進一に花束を投げつけた。ちょうど目とか、そういう当たったら痛い部分に花束は激突し、彼はベッドの上から転がり落ちる。 「それじゃ、神山《かみやま》くんに久美子さん、またねー−」 ガコンッと壁にパンチをくれると、そのまま彼女は帰ってしまった。部屋の中には、顔の獄ての穴から、色んな水を流した(涙、よだれ、鼻水、耳水)進一と、それを気の毒そうに見守る佐間太郎と久美子が取り残される。気の毒そうに見るなら、かばってやれよと思うのだが、つい咄嵯《とつさ》に答えてしまったのであった。 「コイツには、これぐらいの方が丁度いいな」 ---------------------[End of Page 87]--------------------- 「そうですね。浮気《うわユ》者ですからね」 咄嵯じゃなかった。完全にわざとでした。 「でも、神山くんが羨《うらや》ましいですよ」 「え?なんで?」 「こんなふうに、楽しいお友達がいて……。わたしなんて、お友達いませんもん」 久美子はそう言って窓際《ぎわ》へと歩いた。もちろん転がっている進一を踏みつけて。 「そんなこと言わないでよ。久美子さんはクラスでも人気者じゃないか」 佐間太郎も窓際へと向かい、彼女を慰めた。 当然、途中で転がっている進一を踏みつける。 「でも、みんなわたしのことなんて本当にお友達だなんて思ってないですよ。知り合い程度じゃないですかね。ただのクラスメイト……。どうせ一人ぼっちです」 寂しげに眩《つぶや》きながら、病室の中を歩き回る久美子。言わなくてもわかると思うけれど、進一を踏みつけている。 「なんでだよ?だって久美子さんはきれいだし、それに、その……」 佐間太郎は彼女の後を追いかけるようにして、ゆっくりと室内を歩き回る。さすがにもう言わなくてもわかると思うので、言いません。 「わたしがお友達だと思ってるのって、その……」 ---------------------[End of Page 88]--------------------- 神山《かみやま》くんとか……。そう言いたいけれど、言えない。彼女はモジモジして、靴の先端で床をグリグリとほじくる。もちろんその下には進一《しんいち》が。 「あ、こんなところに縄跳びが。なに?言ってみてよ」 偶然病室に置いてあった縄跳びで、わざわざ二重跳びをしながら佐間太郎《さまたろう》は彼女に詰め寄る。もちろん二重跳びをしている、その下には。 「あら、病院なのに竹馬《たけうま》が。言えないですよ、神山《かみやま》くん。わたし、言えないです」 いやあ、珍しいことってありますね。病室にあった竹馬を久美子《くみこ》は器用に乗りこなしながら、言葉を濁す。もちろん竹馬のほっそーい足の先には。 「だから、言ってみてよ。あ、なんの因果《いんが》か病室にボーリング玉が……」 「死ぬから1それ、頭とかにぶつかったら死ぬから鎚」 さすがにボーリング玉を室内で転がされ、自分の頭にぶつけられたらタマラナイと進一が飛び上がった。もっと早く止めろよ、という気もするが、それでこそ進一である。 「なんだ、元気じゃないか」 「元気じゃねえよ!なんで縄跳びなんだよ!しかも、なんで二重跳びなんだよ1激しいだろ、あえて激しいの選んだろP」 「まあまあ、自業自得ですし……」 「久美子さんまで1そもそも、なんで竹馬乗れるんですか!」 ---------------------[End of Page 89]--------------------- 「さあ?」 「さあ、じゃなくて!」 そんなアットホームな会話を続ける三人を、遠くから見ている少女がいた。 病院から少し離れた場所にある歩道橋から、この病室がよく見えるのである。 「くうううう1進一くんてば、久美子さんにデレデレしちゃって……」 愛《あい》は唇を噛《か》み、全然デレデレしてないのにもかかわらず、進一に対しての不満を漏らす。 「こ、こうなったら……わたし……」 彼女は歩道橋の上で決意をするのであった。 「グレてやるう11”」 こうして世田谷区《ぜたがやく》に、一人の不良少女が誕生する。たとえ、まったくもって彼がデレデレしてるとは思えないとしても。それが乙女《おとめ》心なのだ。……たぶん。 「はあ〜、サッパリしたあ……」 その夜、佐間太郎は風呂《ふろ》から上がると、いつものように久美子に声をかけた。 「先に入ってごめんね。今度は久美子さんの番だよ」 「あ、はい。わかりました」 しかし、いつもとは違う一言が加えられた。 ---------------------[End of Page 90]--------------------- 「俺《おれ》と久美子《くみこ》さん、友達だよね?」 「えっ?」 唐突な彼の言葉に、久美子は戸惑った。それが、昼間、病院で彼女自身が言った言葉であることを思い出す。 「俺は久美子さんの友達だから。一人ぽっちだなんて言わないでよ。ね?」 友達とここまで断言されてしまうと、逆に傷ついてしまう。そもそも自分で言ったことだから仕方ないのだが、もうちょっと他《ほか》の言い方をすればよかったと久美子は後悔した。 「それにさ、テンコだってメメだって姉ちゃんだって、みんな久美子さんのこと友達だって思ってるよ。いや、家族だね。同じ家族の一員だと思ってるから、一人なんかじゃないよ」 きっと慰めているのだろうけど、彼にはまだ久美子の本心を理解することはできないようだった。まあ、テンコとの関係を見ていれば、佐間太郎《さまたろう》が恋愛に対して鈍感であり、さらに奥手なのだとわかるから仕方ない。 「ありがとうございます……」 久美子は小さく言った。友達からでも、家族からでも、いつかはもっと深い関係になることができるかも知れない。この三畳ルームで二人で暮らしている限り、誰よりもそのチャンスは多いはずだ。 ---------------------[End of Page 91]--------------------- 「それじゃわたし、お風呂《ふろ》入ってきますっ」 なんだか恥ずかしくなって、彼女はバスタオルだけを持って部屋を出て行った。 下着はおろか、新しいパジャマさえ持たずに……。 脱衣所に到着すると、昨日の反省を踏まえて、パジャマを着たまま浴室の中を見る。 「誰もいない……と」 大丈夫だ、今日はメメが頭を洗っているなんてこともない。安心して久美子はパジャマを脱いで裸になった。シャワーから熱めのお湯を出し、全身を洗い流す。冷たくなった足を湯船の中にゆっくりと入れると、浴槽の中で、なにかがつま先に当たったような気がした。 「え?なに?」 ザッパーン。海底火山の噴火だ。久美子は咄嵯《とつさ》にそう考える。もちろんお風呂に火山はない。となると……。 「チョロ美ちゃーん1昨日の続きだわよi!」 ママさんだった。彼女は久美子が油断するのを待つために、わざわざ湯船の中に頭まで潜っていたのだった。ママさんに続いて、テンコとメメが湯船の中から頭を出す。どうやら、二人とも頭を掴《つか》まれて強制的に沈まされていたらしい。 「おほほほほ!さあチョロ美!かかってきなさい!大人のボディのママさんと勝負 ---------------------[End of Page 92]--------------------- よ!」 「なんの勝負ですかP」 「え?なんの勝負?テンコちゃん」 口からピユーピューお湯を吐きながら、テンコはママさんに大声で言う。 「そんなの知りません!なんでこんなことするんですか!もう!」 「あらあら、テンコちゃんてばゴキゲンニャニャメ……」 「そりゃあ、いきなり目隠しされてお風呂《ふろ》の中に沈まされたら機嫌も悪くなります!」 その横で、メメも同じようにピューピューとお湯を吐き出している。 「ねえメメちゃん、なんの勝負だっけ?」 「え?……将棋?」 「よーし!それじゃあ裸将棋の始まりよ1香車《きようしや》!香車!香車!」 ママさんは意味不明の言葉を叫《さけ》びながら、久美子《くみこ》の足を掴《つか》んで湯船の中へと引きずり込んだ。 「おほほほほ!それじゃ、バプを三十個ほど追加!ブクブクブクブク!ゲホゲホ!むせる!パブ三十個はむせる1健康なはずの入浴剤が、度を越した使用法により害を与えるはめに!ゴホゴホ、おほゲホおほゲホ!」 「わかってるなら止《や》めてくださいー1きゃあああ!ゴホゴホ!」 ---------------------[End of Page 93]--------------------- 彼女は悲鳴をあげながらも、家族って楽しいなと思うのだった。 「全然楽しくないって」 ちなみに今の=言は、自分の部屋で寝転がっている美佐《みさ》である。 それからしばらくして、三畳ルーム扉が昨日と同じように開かれた。 佐間太郎《さまたろう》が目を向けると、そこにはバスタオルを巻いただけの姿で久美子が立っている。 一目見て、昨日よりも確実にのぼせている顔をしているのがわかった。 「うおおおい!久美子さん、大丈夫Pつうか、なんでバスタオルP」 「神山《かみやま》くううん……。へろへろ……れしゅ」 彼女は昨日よりも速いスピードで佐間太郎に飛ぶ込むと、そのままじっと彼の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んだ。 「なにPどしたのPうちのお風呂はなにかいるのP」 「神山くうん……。あのね……あのね……友達なんかじゃ……嫌なの……」 「え?」 「わたしね、わたしね、神山くんとね……」 久美子の顔がどんどん近づいてくる。佐間太郎は、大きく息を飲んだ。 「わたし……わたし……」 今までに、女の子とこんなに近づいたことがあるだろうか。どど、どうしよう。どうし ---------------------[End of Page 94]--------------------- よう。もしかしてこれは、これは……。 「その、わたし……」 久美子《くみこ》は、ゆっくりと瞳《ひとみ》を閉じると、こう言ったのだった。 「おげえ……」 それからの出来事に対しては、ノーコメントとさせて頂きたい。 翌朝、久美子は自分が全裸で寝ていることに気づいて頭が真っ白になった。布団《ふとん》の横にバスタオルが一枚置いてあるだけで、なにも身にまとっていないのだ。 「きゃあああ!ど、ど、どうしてわたし、裸なのP」 彼女は必死になって昨晩のことを思い出そうとするが、お風呂《ふろ》に入ろうとしたところから記憶がない。 もしかして、このシチュエーション、佐間太郎《さまたろう》となにかあったのだろうか……。 「あの、神山《かみやま》くん……」 久美子はバスタオルで胸を隠しながら、恐る恐るベニヤの穴から顔を出した。 佐間太郎は部屋にはおらず、ベッドの上になにかが置いてあるのが見える。 彼女はそれがなにか確かめるために、そっとベッドに近づいた。 『久美子さんへのプレゼントです。佐間太郎より』 ---------------------[End of Page 95]--------------------- そんな一通の手紙と共に、エチケット袋が置いてある。 キョトンとした顔をしながら、久美子はそのプレゼントを受け取った。 「神山くんて、遠足マニア?」 違うけれども。 ---------------------[End of Page 96]--------------------- 第三章美佐《みさ》によります、女を磨く講座 「神山《かみやま》さん〜っ」 「神山先輩〜っ」 「美佐《みさ》さん〜っ」 「あらあらみなさん、ごきげんよ〜う」 世田谷区《せたがやく》にある菊本高校《きくもとこうこう》。その校門を、軽《かろ》やかな足取りで進む一人の少女がいた。 彼女の名前は神山美佐。この学校の二年生である。 大学受験や就職を控え、将来に対する不安感に溺《おぼ》れる同級生が多い中、美佐はそんなことなどどこ吹く風と爽《さわ》やかに歩いていた。 校庭を横切る姿はエレガンツ。髪をかき上げる仕草はビューリホー。笑う時だって手は口に当ててオホホホ。なんて可憐《かれん》なんだろう、どうしてあれほどまでに美しいのだろう。 クラスメイトはおろか、全生徒から羨望《せんほう》の眼差《まなざし》を受けている 普通の美人であれば、「なによアイツちょっと美人だからって調子に乗っちゃってチョームカツク。んじゃあれだ、今日の放課後に体育館の裏にこいや。人生の厳しさピッツリ教えてやんべ」と嫉妬《しつと》や妬《ねた》みの対象になるものだが、美佐ほどになるとそうはいかない。 ---------------------[End of Page 97]--------------------- 彼女を見た女子はその美しさに溜《た》め息《いき》をつき、自分の顔に落胆し、嫉妬する前に虜《とりこ》になってしまうのだ。 肩よりも少し伸びた髪はトリートメント成分かなんかで輝き、ハリウッド女優並のスタイルは海辺でエクササイズをしてたとしても不自然さなどはない。 お気に入りのインディーズブランドA.W.A.のピンで留《レ 》めた前髪の下では、シャープなフォルムをした瞳《ひとみ》の中でキラキラと星を輝かせている。 瞳の中で星がキラキラ……これは比喩《ひゆ》などではない。実際に、彼女の瞳の中では七色の星がホログラムのように光っているのだ。この光を見た者は、男子だろうと女子だろうと彼女の魅力にやられてしまう。いや、正確に言えば、彼女の発している「女神の吐息《といき》」の力で精神を操られてしまうのである。 そう、彼女こそが神山家の長女であり、女神候補の美佐だ。 美佐は家にいる時以外は、常日頃《ひごろ》から「女神の吐息」を使って誰《だれ》をも魅了《みりよう》している。なぜなら、「モテる」ことこそが女神候補の彼女の修行のひとつだからである。 真っ白いワンピースにオレンジのラインが走った菊本高校特有の制服の、む、む、胸の部分を、はちきれんばかりに揺らし、カモシカのようなフトモモをプリプリとさせつつ歩く美佐。こうして文字にしているだけで、そこはかとなくエロスを感じてしまうではありませんか。 ---------------------[End of Page 98]--------------------- たとえ家に帰った瞬間に「あぢi!疲りた!牛乳飲む!」などとボヤきつつ、着ている制服をバッサンバッサンと脱ぎ散らかし、下着姿で冷蔵庫をドッカーンと開けて、パックのままグボングボンと牛乳を飲む二重人格者だとしても、学校にいる間の彼女の美しさに文句をつける者などいない。そもそも、ほとんどの生徒が彼女の本性を知らないでいるのだ。 「あ、美佐《みさ》先輩。おはようっす」 「あら、確か佐間太郎《さまたろう》のクラスの……」 「藤崎《ふじさき》っす。藤崎っす。どうもっす」 背が高く、ヒョロリと痩《や》せた男子が美佐に声をかける。佐間太郎のクラスメイトの藤崎くんだ。彼は最近髪の毛を青く染めたようで、さっそく生徒指導室に呼ばれていた。今では少し落ち着いた茶髪になっているが、それでも他《ほか》の生徒と比べたらかなり目立つ髪の色をしている。 「藤崎くんの髪型は個性的でいいわね。そのうちピンクにでもしたらつ・」 「うしゃしゃしゃ。冗談キツいっすよ。でも美佐先輩のためならいいかもです!ところで、今度寿司《すし》でも食いに行きましょうよ、寿司っ」 「そうね。時間がある時にね。それじゃあね」 男たちの誘いを軽く流し、ゲタ箱で上履きに履き替える。ああ、彼女が履いているだけ ---------------------[End of Page 99]--------------------- で普通の上履きが高級品に見えるから不思議だ。藤崎くんは、美佐の上履きにマジックで鳥の絵でも描いてやろうかと思った。だが、フェラガモは鴨《かも》のことではない。 アディダスとプーマの創設者が兄弟だということは知っていても、そこまでは気の回らない青春真っ盛りの藤崎くんであった。 美佐が廊下を歩けば、黙《だま》っていても生徒たちは道を開ける。生徒はおろか、彼女の美貌《ぴほう》の前では教師たちもが立場を忘れてしまう。学校の八割ほどの男子生徒に告白されるだけならまだいいが、女子の半分以上さえ「お姉さまになってください」と言ったというから驚きだ。教師だってチャンスさえあればと美佐のことを狙っている。 たとえ家に帰って牛乳飲んだ後《あと》に、口の周りにウッスラと白いワッカができたとしても、そんな些細《ささい》なことを誰《だれ》が責められよう。 『あの……美佐さん』 廊下を歩いている美佐の頭の中に、誰かの声が届いた。誰かと言っても、このテレパシー能力が使えるのは神山《かみやま》家のみなさん以外にいないのだから、その中の一人だということになる。用があれば声だけでなく自分の顔を映像として送ってくるのが神様家族の常である。今の遠慮がちなコールは、最近家にやってきた人物だと美佐は思った。ということは:::o 『どしたの、久美子《くみこ》ちん』 ---------------------[End of Page 100]--------------------- 相手は久美子《くみこ》だった。彼女もまた特別な境遇で育ったために、この能力が使える。ただしあまり頻繁《ひんぱん》に利用していないせいか、イマイチ通信能力が低い。頭の中で同時に考えている他《ほか》のことが、ノイズのように音声や映像に混じってしまうことがある。 さきほどの彼女の声は、妙にカラフルな色彩を帯びたものだった。 『あの、ですね。ちょっと言い難いんですけど……』 ようやく久美子の顔が映像となって美佐《みさ》の視線の先に現れる。まだ彼女に対して遠慮しているのか、かなり小さめのサイズでの地味な登場である。 しかも、なぜか背景は桃色だ。なぜ桃色なのだ、久美子よ。 『なによ。用があるなら言いなさいよ。もしかしてあたしのこと怖い人だって思ってない?それって心外もいいとこよ?めちゃめちゃ優しいわよ?めちゃめちゃキュートよ?寝相とか天使よ?女神だけどさ。見るけ?今度一緒に寝るけ?』 『ねっ、寝ません!わたし、そういう趣味はありませんから』 『あらそ。残念ね……』 美佐がからかうと、久美子の顔が真っ赤になるのがわかった。なんと純情ガールであろうか。もちろん、この会話は全《すべ》て廊下を歩きながら心の中で行っているものである。他の生徒は、彼女が軽くレズっぽいお誘いをしたことなど露知らずにいるのだ。 『えと、そのですね、さっき教室に行ってカバンを開けたらですね、美佐さんの物が入っ ---------------------[End of Page 101]--------------------- ぜなら、心当たりがあったからだ。 昨日いつものように家に帰ってくるとメメが庭の隅でしゃがんでなにかをしていたので、面白半分で声をかけたのだった。 「あんた、それなにやってんの?」 彼女は隠し事をするように言った。 「朝顔を……育ててる」 そのスリリングさに欠ける返答に、一瞬で美佐《みさ》は興味を失ったのである。しかし、自分から聞いておいて「あっそ」で終わらせるのもよろしくない。そこで彼女は無難な話題を続けることにした。 「朝顔?はあ〜ん。ちゃんと間引いてる?」 「間引く?」 メメはその単語の意味さえ知らないといった様子で彼女を見詰めた。 「そう。弱い芽をね、引っこ抜くの。そんで、強いのだけ残すってこと。生存競争みたいなもんかな。わかる?で、あんたどんぐらい種を植えたの?」 コ個」 「一個Pじゃあ間引くわけにはいかないねえ。いーい?一個しかないんだったら、それを大切にしなさいよ。どんなにダメっぽお〜い芽が出ても、一個しかないんだったらそ ---------------------[End of Page 102]--------------------- の種を大切にしなさいよ。もし枯れちゃったら取り返しがつかないんだからね」 「うん」 「大事にね、変な、弱いのでも、ヒョロヒョロってしてても、ちゃんと育てるんだよ?」 「うん。わかった」 「ヨロスィー!メメちん、素晴らしいね。スバラスィー!」 「うん」 よし、とりあえずこの辺りで終わりにしとくか。無意味に上機嫌になった美佐は、そのままドアを開けて玄関に入り、早速制服を脱ぎ始めた。 まずはカバンを放り投げ、靴下を脱ぎ、首の辺りについたワンピースのジッパーを開け……ようとしても、ただ開けるだけでは面白くないので、壁に胸を擦《こす》りつけてジリジリとおろし脱ぎ捨てた。 あっという間に彼女はタンクトップとパンツというだけの姿になり、数時間振りの開放感を味わうのだった。いや、まだ美佐の体を締め付けるものはある。そう、それはプラジヤーだ。ジッパーをおろした時と同じ要領で、今度は壁に背中を擦りつけホックを外すと、そのままピラリとブラジャーまでも脱ぎ捨てた。 そうなると彼女の定番である、上はノープラタンクトップ&下はパンツオンリースタイルの完成である。ブラを取っても形の崩れない胸に満足しながら、美佐は乍乳を求めて台 ---------------------[End of Page 103]--------------------- 所へと向かおうとした。 「あー!もう、美佐《みさ》さんてば、また脱ぎつぱなしでー!」 それをテンコに見つかったのである。彼女はプリプリと怒りながらも、靴下やら制服やらは回収してくれたが、ブラジャーだけは拾ってくれなかった。 「あり?なんでブラは拾ってくれないの?美佐、カナスィ……」 「悲しくありません。下着ぐらい自分でやんなくてどうするんですか」 「え、凡〜!だって美佐ちん、早くぎゅーにゅ1飲みたいんだもん」 「いいから下着だけは自分でしてください。それが女性としての最後の砦《と晦で》だと思います。 このままじゃ美佐さん、この家で二番目に具合の悪い女性になっちゃいますよ?」 その声が聞えたのか、一階にある和室からママさんの声が聞えてきた。 「むにゃむにゃ……。ママさんのこと今誰《だれ》か言いましたかあ〜?」 「わああ!な、なにも言ってませんうH」 テンコはそう言うと、美佐の服を抱えて洗濯機のある方へと去って行った。 しか〜し、そんなことを言われて素直に従う美佐ではない。仮にも彼女は女神候補であり、天使の言うことなど聞く義務はないのだ。それに、そもそもグウタラなのである。 だが、ブラジャーを廊下に置きっぱなしにして、またテンコに小言を言われるのも腹が立つ。彼女は、偶然置いてあった久美子《くみこ》のカバンの中にブラジャーを突っ込んだのだった。 ---------------------[End of Page 104]--------------------- そして美佐はめでたく牛乳を飲み干し、翌日の学校では久美子のカバンからは正体不明のブラジャーが登場したという寸法だ。 「ごめんごめん。ひとまずそれ、つけてて?』 『つけませんてば!』 美佐は教室に向かいながら、彼女に簡単に指示を出した。それを聞いた彼女の蘇猷は、さらに桃色がかる。さっきまでのが桃色リーダーだとしたら、桃色キャプテンになったぐらい桃色がかる。どっちがどうなのかはわからないが。 「なんで?あたしの、趣味じゃない?久美子ちん、痩《や》せてる割には胸あるから、スカスカってことはないと思うんだけどなあ……』 『うう!入る入らないの問題じゃありません!とにかく、休み時間に取りにきてください。それまで持ってますからね!』 母親の口うるさい説教のように久美子は言った。美佐はどうしたものかと泌め齪をついたが、それさえもフローラルの香りのする、爽《さわ》やかな風となるのだった。 一時間目の授業が終わり、休み時間になると美佐は一年生の教室へと向かった。 もちろん久美子のカバンに入っていたというブラジャーを受け取るためである。 わざわざ学校で受け渡しをしなくてもいいと思うのだが、他人の下着を持っているのは ---------------------[End of Page 105]--------------------- 久美子《くみこ》にとって恥ずかしいことらしい。一刻も早く引き取るように、という心の声が授業中に何度も美佐《みさ》の元に届いた。 『絶対に休み時間に取りにきてくださいね!わたし、こんな大きなサイズの下着持ってたら、すっこい心のネジマガッタマニアみたいに思われますから!』 二階にある二年生の教室から、三階にある一年生の教室まで「うわ、ダル。めちゃめちやダルい」などと誰《だれ》にも聞えないように眩《つぶや》きながらも、約束通りやってきた。 一年A組のドアから顔を覗《のぞ》かせると、佐間太郎《さまたろう》とテンコが窓際《ぎわ》の席にいるのが見える。 それから少し離れた場所に、久美子が一人で座っていた。 『久美子ちん、来たよ』 そう声を飛ばすと、久美子は体を大げさにビクンと震《ふる》わせて振り向いた。なにもそこまで驚くことはないと思うのだが……。 『ま、待っててください!今からそっち、持っていきます!』 彼女はカバンからタワーレコードの黄色い袋を取り出すと、それを大事そうに抱えて美佐の元まで小走りでやってくる。 「はい、これです」 「確かに受け取りました」 彼女はそう言って、穏やかな微笑を浮かべた。久美子は、それを見て心の奥をギュッと ---------------------[End of Page 106]--------------------- 掴《つか》まれそうになるのを感じる。 「いえ。その、はい。これからはわたしのカバンには入れないでください」 「ええ、もちろん。でもどうしたの久美子ちゃん。顔、真っ赤よ?」 美佐は久美子の前髪を手で押し上げ、オデコをピトッとくっつけた。 「お熱でもあるんじゃない?」 その様子を見つけた数人の男子生徒が、「オォ……」と声を漏らしながら凝視している。 妙に情念のこもった視線に気づいた久美子は、慌《あわ》てて美佐から飛びのいた。 「熱とかじゃありません。大丈夫です……」 ただ、あまりにも顔がきれいだから、見とれてしまっただけです。彼女はそれらの冒葉を必死で飲み込み、平静を装おうとする。 「そう。わかったわ。じゃあ、またね」 美佐は平気な顔をしてそう言うと、ビニール袋に入ったド着を持って教室へ帰って行った。きつと、わざとあんなことをして久美子のことをからかったのだろう。 「もう、美佐さんてば……」 A組を通り過ぎ、B組の前を歩いている時に事件は起こった。彼女は自分の目を疑った。 まさか、今の時代に、そんなこと、有り得るのかしらと。 「オイース、美佐先輩、オイース」 ---------------------[End of Page 107]--------------------- B組の前には、リーゼントに長《ちよう》ラン、そしてボンタンをはいた愛《あい》がタバコを口にくわえながら座っていた。リーゼントとは、ロックンローラーや不良の代表的な髪型であり、なにもそこまでというぐらいの整髪料で髪の毛を整える不思議なスタイルである。例えて言うなら、頭の上にフランスパンを乗せたような感じと言えばわかるだろうか。いや、たぶんわかんないな。わからない人はお父さんやお母さん、親戚《しんせき》のおじちゃんに聞こう。 ちなみに、必要以上に丈の長い学ランが長ランであり、常識外れにフトモモの部分が膨らんだズボンがボンタンである。 東京などでは絶滅しているが、地方に行くと真顔《まがお》で着ている人たちがいるので恐ろしい。 そんな恐ろしい不良ファッションを、愛がピッツリと着こなしているのだ。 「なに……どうしたの?」 「グレたっす」 「なんでグレたの?」 「う……」 彼女は火のついていないタバコをプカーとふかす振りをすると、ゆっくりと立ち上がって美佐《みさ》に言った。 「美佐先輩には関係ないっすから。自分、「本気』って書いて『マッハ』っすから」 わからない。言ってる意味がわからない。 ---------------------[End of Page 108]--------------------- 「あなた、真面目《まじめ》な子だったじゃないの。そんな服着たら、みんなに笑われちゃうわよ。 しかも本気で笑われちゃうわよ?」 心配しているのか気の毒に思っているのか、彼女は愛の頭をナデナデと撫《な》でる。 美佐の優しさ(?)に触れた瞬間、愛はリーゼントの先端を揺らしながら泣き出した。 「うううう、自分、もうダメっす!もうダメっすよ!」 「なにp…ちょっと、泣かないの。なにがあったの?」 「うう。美佐先輩、自分、どうしても進一《しんいち》くんをガチコン言わせたいんす!だから自分に、女を磨く方法を教えて欲しいっす1」 「なに、どうしたの、そんな切羽詰《せつばつ》まった顔して……」 切羽詰っているというか、リーゼント姿で泣かれても笑えるだけである。せめて格好をどうにかしてから訴えて欲しいものだ。 「とりあえず、タバコ止《や》めなさい。女の子の喫煙は妊娠時に影響しちゃうから」 「大丈夫っす、これ、チョコレートっすから」 「じゃあ食べておきなさい」 「むぐむぐむぐむぐ」 美佐に言われて彼女はシガレットチョコを食べると、口の端にチョコをつけながら哺ぶ。 「自分は、進一くんがもっと真面目になってくれれば、ちゃんとお付き合いしてもいいと ---------------------[End of Page 109]--------------------- 思っているっす!それなのに、いっつも他《ほか》の女の子にデレデレして、あんなやつ、マジ絶交っすよ!」 どうしたものかと美佐《みさ》は腕を組んだ。彼女の気持ちが真剣なのはわかるが、自分が女をモテているのは女神の吐息《ともき》の効力があってこそだ。そのような特殊能力を持っていない愛《あい》に、女を磨く方法などを教えることができるのだろうか。 「だけど、わたしもね、その、どうして自分がこんなに告白されるかわからないの。だから、愛ちゃんに教えることはできないと思うけど?」 愛の頬《ほね》に手を当て、瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込むように美佐は言った。 「そ、そうなんすか?」 あまりに距離が近いために、愛の胸はドキドキと激しく高鳴る。自分がリーゼントに長《ちよう》ランを着ていることなどスッカリ忘れ、顔を赤く染めるのだった。 「でも、自分……やっぱり、進一《しんいら》くんに真面目《まじめ》になって欲しいっす。自分と付き合うとか付き合わないとかじゃなくても。あんなに惚れっぽかったら、これからろくな人生を送らないと思うっすよ。だから……」 あくまで彼女は自分のためではなく、進一のためにと言っている。しかし、それが嘘《うそ》だということは誰《だれ》にだってわかる。愛は、彼に自分だけを見て欲しいと思っているのだ。だからこそ魅力的な女の子になりたいと願っているのである。 ---------------------[End of Page 110]--------------------- 「本気なの?」 「はい。本気(マッハ)っす」 「いや、マッハじゃなくて……」 愛の瞳はどこまでも真《ま》っ直《す》ぐに美佐を見詰めていた。 「ねえ愛さん、どんなことがあっても大丈夫?」 「大丈夫っす。どんなに辛《つら》いことがあっても、女を磨くためなら……。覚悟はできてるっすよ」 仕方ない、と美佐は思った。ここまで言われてしまっては、女神としてこの少女を旗《ユう》っておくことなどできない。 「わかったわ。それじゃあ、放課後に生徒指導室まで来て。鍵《かぎ》をかけておくから」 「オッス!ありがとうございます1」 「ドアの前に立ってノックを二回。それから合言葉を言ってね」 「合言葉?」 美佐は軽《かろ》やかな足取りで教室から去りつつ、愛だけに聞えるように言った。 「合言葉は……」 「合言葉は?」 「死して屍拾《しかばね》う者なし」 ---------------------[End of Page 111]--------------------- その言葉を発した時の美佐《みさ》は、恐ろしく冷たい目をしていた。なんだろう、やっぱりモテるためにはそれぐらいの努力をしなければいけないということだろうか。 背筋に冷たい吐息《とい、」》をはかれているような寒気を感じる。 「それじゃ、ね」 美佐はそう言って去って行った。窓の外でカラスが不吉な鳴き声をあげた。 放課後、愛《あい》は美佐に言われた通り生徒指導室へと出かける。もちろん、今はいつもの制服姿に戻り、髪型もリーゼントではない。一部のリーゼントマニアのみなさまには申し訳ないと思うが、そんなマニアはいらない。 「死して屍《しかばね》……拾う者なし……」 彼女はドアを二回ノックした後に、そう眩《つぶや》いた。静かにドアが開くと、そこにはスーツ姿の美佐がいた。たぶん本人は女教師をイメージしているのであろう。フレームの細いメガネに、黒板を指す時に使う伸びる棒(先端の白いキャップを取るとボールペンになっている、例のあれである)、さらにはミニスカートから伸びる足は網タイツが装備され、ハイヒールの色はもちろん赤だ。 「形から入ってみた」 彼女はそう言うと、愛を教室の中へと引きずり込む。 ---------------------[End of Page 112]--------------------- 「いい俘今からはスパルタでいくわよ!女を磨きたいんなら、本気でやんなくちゃダメ!だと思う!だから、あんたには本当のあたしを見せるわ!」 「本当のあたしP」 普段は大人しく気品溢《あふ》れる彼女の乱暴な言葉に、愛《あい》は酷《ひど》く混乱した。だが、それからの彼女の行動は、もっと彼女を動揺させる。 「じゃあ、脱ぎます!」 「ええっP”なんでですかP」 「問答無用!」 スーツ姿の美佐《みさ》は、乱暴に着ているものを脱ぎ始めると、最後にはタンクトップとパンツだけという姿になった。しかも仁王立《におうだ》ち。でもメガネはつけたまま。 その姿でどこからか瓶に入った牛乳を取り出すと、腰に手を当てて一気飲みをする。 「プハー!うめええええ!」 目の前で起こる一連の出来事に、愛は対処できなかった。なんなんだ、なんで脱ぐ必要があるのだろう、なんで牛乳を一気飲みをするのだろう。いつもの上品な美佐からは考えられない行動の数々に、彼女は頭を抱える。 「愛たん、わかった婬これがあたしよ!ジャーン!」 そう言って美佐は、空っぽになった牛乳瓶を掲げ、両手を挙げてポーズを取るのだった. ---------------------[End of Page 113]--------------------- なんだ、なにが言いたいのだ。愛には、さっぱり理解できない。 「じゃ、そういうことで」 いきなりテンションの下がった美佐は、いそいそと洋服を着だした。ついさっきまでは下着姿で両手を広げて絶叫していたのに、今は小さな動きで脱いだ服をまた着ている。 不思議そうな顔をする愛を見ながら、美佐は自分の行動が成功したと確信した。 そう、彼女は学校での虚像の自分のままでは、彼女に対していろいろと教えるのは失礼に当たると考えたのだ。愛の気持ちが本物ならば、自分も本物の自分で応えなくてはならない。別人の殻をかぶった自分ではなく、家にいる時の本来の自分を見せてこそ、彼女と対等な立場に立つことができるだろう。 適当な性格なくせして、キッチリとしているところはしているのだ。ただ、その方向が完全に間違っていることに本人は気づいていない。 もちろん、計画は完全に失敗している。愛は目の前で行われたことが一切理解できずに、さっさと「なかったこと」にして記憶から消すことにしたのだった。 「それじゃ、始めましょうかね。いい、愛たん?(ふふ、作戦成功ね!)」 「は、はい!(なんだかわからないけど、なかったことにしよう!)」 女を磨く講座は、いよいよ始まろうとしていた。しかし、それを邪魔するかのように、何者かが二度ドアをノックした。 ---------------------[End of Page 114]--------------------- 「……ししてしかばねひろうものなし……」 さらに、二人しか知らないはずの合言葉が、ドアの向こうから聞えてくる。 「愛《あい》たん、誰《たれ》かにバラしたP」 「バラしてないです!バラしてないですってばあ!」 「ちっ。おっかしいなあ……」 美佐《みさ》が恐る恐るドアを開くと、そこには申し訳なさそうな顔をした久美子《くみこ》がいた。 「あの、聞こうと思ったわけじゃないんですけど、その、合言葉の話もなにもかも全部聞えちゃったもので……」 「聞えたのはいいけど、なんで来るのよ?」 「わたしも……女を磨きたいんです!」 彼女はそう言うと、グッと握り拳《こぶし》を作った。美佐は、すぐに全《すべ》てを把握した。 そうか、まだあいつのことを……。 「いいわよ、中に入りな。だけど、甘くないからね?」 「もちろんです、わかってます!」 こうして、美佐先生による、女を磨く講座が始まるのだった。 「じゃあ、あんたたちに聞くわよ?彼氏が浮気《うわき》をしました。はい、どうする?」 早速美佐は二人をイスに座らせると、教壇に立って講義を始める。いきなりの質問に生 ---------------------[End of Page 115]--------------------- 徒の二人は戸惑っていたが、とにかく参加しなければと愛は手を挙げた。 「はい、愛たん」 「厳しい罰を与えます」 「だから、その罰はなにかってことを聞いてるんでしょ?」 「ああ、そうか」 美佐は手に持った伸びる棒で黒板をパシバシと叩きながら、強い調子で続ける。 「いい?女が男にナメられるのは、甘いから。ビシッと厳しくやれば、そんなことはなくなるからね。厳しい罰っても、ハンパじゃダメよつ・わかってんの?」 愛はションボリとした様子で顔を伏せた。それとは対照的に、久美子は笑顔で予を挙げる。 「はい、久美予ちん」 「えーと、彼氏が浮気をしたら、首を落とします!」 「え?」 屈託なく発言する彼女に対して、美佐は思わず聞き返す。 「あ、ごめんなさい。間違えました!」 彼女は舌をペロッと出して、自分の頭を叩いた。 「ギロチンで、首を落とします!それから彼氏の両親を……」 ---------------------[End of Page 116]--------------------- 「待て待て待て待てーー・」 美佐《みさ》は久美子《くみこ》に近寄って、その両肩をガッシリと掴《つか》んだ。 「あんた、なに?プラックジョーク?全然笑えないんですけど」 「え?いや、冗談とかじゃなくて、こう、首をスパッと……」 隣では顔面蒼白《そうほく》になった愛《あい》が、プルプルと震《ふる》えている。あまりにも残酷なことをサラッと言う久美子に対して、恐怖を感じているのだろう。 「そっか……あんた、あれだもんね……」 美佐は、しまった、と思った。なにせ久美子はあれなのだ。多少の残酷なことには馴《な》れているに違いない。しかし、いくらあれだとしてもやり過ぎではないのか。 「あんたね、ちょっとあれすぎるから、もうちょっとオブラートに包みなさい」 呆《あき》れた調子で美佐が言うと、久美子はハッとして手を口で覆った。 「いっけない!わたし、つい昔のあれで結構グロげな発言を笑顔で言ってしまいました……。ご、ごめんなさい!」 「いや、謝んなくていいから。これからはさ、ほら、もうちょっとライトな感じで発言するように」 「はい。反省します……」 死して屍拾《しかばね》う者なし。確かに美佐はそれを合言葉にした。しかし、これほどまでの意 ---------------------[End of Page 117]--------------------- 思を持っていないとモテないのだろうか。愛は二人の会話を聞きながら、ちょっとだけモテるということが怖くなるのだった。 「えi、あんたたちの意見は聞かないことにしました。まったく役に立たないからね。それじゃ、サンプルを元に意見の交換をしましょう」 美佐は生徒指導室の窓際《ぎわ》に行き、グラウンドを眺める。すると、そこには二人の男女がいるのが見えた。 「お、ちょうどいい。そんじゃ二人とも、こっちきなさい。あれを教科書としましょう」 愛と久美子はノートを片手に、美佐と同じように窓の外を眺める。 金髪に近い髪の毛の色をした女子と、ボケっとした感じの男子が立っていた。二人とも一階の廊下で何度かすれ違ったことがあるから、三年生だろう。美佐はそんなことを考えつつ、教師らしい口調で言った。 「それではっ。あの女子を仮に花子《はなご》さんとします。ということは、もちろん男子は花男《はなお》くんですね」 いや、女子が花子さんだとしたら、男子は太郎くんではないのか。そう心の中で突っ込む二人であった。 「さあ、あの二人がどんな会話をしているのか考えなさい!」 愛と久美子は二人の様子を口を凝らして観察する。花子さんは必死になって花男くんに ---------------------[End of Page 118]--------------------- なにかを言っているが、彼はほとんど無反応だ。もしかして愛の告白だろうか?それとも、ケンカをしているのだろうか。二人は校庭で会話をしている彼たちになったつもりになって考える。 「はい!こんな感じじゃないでしょうか1」 愛《あい》が手を挙げて、自分なりに考えた会話を再現し始めた。 「『ちょっと花男《はムゐお》くん、あの女誰《だれ》よ!浮気《のつわき》してたのね!もう、許さないから!』『…………』『なんで黙《だま》ったままなのよ!なんとか言いなさいよ!』『…………』『もう、どうしてなにも答えてくれないの!わたしのことが嫌いになったのp」『ピー、ネンリョウギレデス』『なんだ、ロボットか!』というわけで、花男くんはロボットだったのです!」 えっへん、とばかりに胸を反《そ》らす愛を、美佐《みさ》は棒でツンツンと突く。 「だったのですじゃないでしょ。なにそれ!」 「いや、ちょっとSF色を強めた方が、ドキドキするかなって思って……」 「強めなくていいの!つうか、あんたのSFって何年前で止まってんのよ!そんなべタなロボットいるわけないでしょ!」 愛は美佐に叱《しか》られると、落ち込んだ顔をしてイスに座った。それを見た久美子《くみこ》は、「わたしに任せて!」とばかりに一歩前へ出る。 「美佐さん。わたしもできました。これは完壁《かんべき》ですよ」 ---------------------[End of Page 119]--------------------- 「本当?SFっぼくしないでよ?」 「しないです。なんで男と女でSFなんですか。ふふ、ちゃんと恋愛っぽい会話になってますよ?」 「よし、それじゃいってみよ!」 久美子は、校庭にいる二人の動きに合わせてセリフを昌.口い始める。 「『つまりこういうことね。あんたは図書館に出かけると見せかけて、実は部屋に留《レロレ 》まった.、そこで彼女を殺害し、証拠隠滅をした。そう、あなたが犯人よ!』『ふ.、俺《おれ》の負けだ』『でも、どうして彼女を?』『それは……。それは、俺はあいつのことを愛していた.、だけど、あいつは他《ほか》の男と:・…』『なんですって?来週には結婚の予定だったじゃないの?』『くくく。笑ってくれ。実は俺と付き合う前から、あいつには恋人がいたのさ.、つまり俺は、遊ばれてたってわけさ。俺はピエロさ!ピエロットさ11・』『そんな…….、そんなことが……』って、みんながいない!」 気がつくと崖徒指導室には、彼女以外誰もいなかった.、黒板には「外で待つ」と殴り書きがされている。 「ち、凡。自信作だったのに……」 そう言いながら久美子は、やっぱりサスペンスの要素は恋愛にはいらないのね、などと思うのだった。 ---------------------[End of Page 120]--------------------- 一方その頃《ころ》、花男《ぱなお》くんと花子《はなこ》さんの本当の会話は、佳境に入っていた。 「ねえ、どうして黙《たま》ってるの?もうわたしのことなんて興味ないんだ?」 花子さんは花男くんに向かって、必死に会話を続ける。しかし、彼は彼女の声が聞えていないように黙るばかりだ。 「退院してから、ずっとそんなだね?まるで人が変わっちゃったみたい。抜け殻っていうのかな」 花子さんは自廟《じひりよう》気味に笑った。しかし、どれだけの言葉をあるゆる手段で投げかけたとしても、花男くんは反応を示さない。 「あたしね……黙ってたけど……。男子から告白されたんだよ?」 彼女にとって、この言葉は切り札だった。さすがにこれを言えば、彼もなにかしらの反応をするだろうと確信していた。 「…………」 しかし、彼は黙ったまま彼女に背を向けている。ああ、もう本当に彼は彼でなくなってしまったんだ。花子さんは諦《あきら》めにも似た悲しみを感じた。 「そいつはもう、空っぽだぜ2」 その時、二人の会話を邪魔する男子が現れた。仮に、次郎《じろう》くんとしておこう。 「なによ、次郎くん……」 ---------------------[End of Page 121]--------------------- ごめん、本当に彼は次郎くんだったようだ。花子さんがそう言っているのだから間違いはない。 「なあ、もうそいつのことは放っておけよ。なにを話しても反応しない。まるで体と魂が別々になっちまったみたいじゃないか。それより俺と付き合えよ。そっちの方が、お前だって幸せになるはずだぜ?そんな抜け殻を追いかけてるよりはな」 花子さんは花男くんの背中を見詰める.、次郎くんになにを言われても、彼は日を開かない。次郎くんの言う通り、魂をどこかに概き忘れてしまったようだ.、 「お前のことを助けたのは立派だぜ。なかなか勇気があると思う.、だけど、こんなふうになっちまったんじゃ、もうお前の相千はできない.、だから、こんな奴《やり》のことは諦《のめヘロら》めて、さっさと俺の彼女になれよ。な?」 次郎くんは花子さんの手首を掴《つか》み、力強く自分に引き寄せた.、 「ちょ、次郎くん!なにするのP」 「俺はお前を幸せにできるぜ」 花子さんの顔は彼の元へと接近する。キスをしてしまいそうなほどに近づいたかと思うと:::。 彼女は、彼に思い切り平手打ちをした。次郎くんの頬が、ほんのりと赤く染まる.、 「いい加減にしてよ!あたしは……あたしは:…・」 ---------------------[End of Page 122]--------------------- 言葉を続けようとしても出てこない。花男《櫨な35》くんはもう、自分の言葉に答えてくれないのではないか、という不安が血液に混じって全身を駆け巡る。 「いいぜ。俺はお前のこと諦《あきら》めないからな」 次郎《じろう》くんはそう言うと、校庭を抜けて校門から出て行った。 「ねえ、なにか言ってよ……」 花子《はなニ》さんは黙《だま》ったままの花男くんの背中にしがみついて、少しだけ泣く。 それでも彼は、ずっとどこかを見詰めたまま、最後の最後まで一言も言葉を発することはなかった。 「はい、正解はコチラでした」 そんな昼ドラちっくな場面を、校舎の陰から例の三人は覗《のぞ》いていた。 「いやあ、なんというか、すごいですなあ」 愛《あい》は溜《た》め息《いき》をついて、久美子《くみこ》の顔を見つめる。 「本当。事実は小説より奇なり、ってやつですね……」 「はいはい、それじゃ今度は実践いくよ?」 美佐《みさ》は手をパンパンと叩《たた》いて二人を移動させる。 「実践って、なにをするんですか?」 久美子は不安そうに彼女に聞く。しかし、美佐はニヤッと笑うだけでなにも答えなかっ ---------------------[End of Page 123]--------------------- た。 みなさん、バニーガールは知っているだろうか?そう、頭にウサギの耳をつけ、ウサギとして一切必要ないはずなのにお決まりの黒レオタードに編みタイツ。手首には、それはなんのためにつけているのですか、という感じでシャツの袖《そで》の部分のみをつけ、さらにお尻《しり》でヒョコヒョコ揺れるのは小さくて丸い尻尾《しつぼ》。 そんな素敵な格好をした女の子を人はこう呼ぶのです。ザ・バニーガールと。 「なんでバニーガールなんですかっ!」 愛は半ベソをかきながら言ったが、美佐にピシャリと言われてしまう。 「うるさいわ!この昭和顔!」 「なにP昭和顔ってなにP”悪口P…」 「大丈夫、橘《たちばな》さん、たぶん悪口じゃないから!きっと悪口じゃないから!それにしても、なんでこの格好なんですか、意図がわかりません!」 「黙《たま》らつしゃい!」 いきなり校舎裏でハダカにひん剥《む》かれ、バニースタイルにさせられた愛と久美子は猛抗議をする。しかし、教師姿の美佐は確信のある一喝を発し、二人は黙らされてしまう。 「そんなのあたしもわからん!」 ---------------------[End of Page 124]--------------------- 確信ゼロでした。 「でもこれだけは確かね、男は動物に弱い!」 彼女は断言すると、愛《あい》に向かって強気で問いただす。 「あんた!今、ティーンに人気の猫耳少女ってあるわね?あの、猫の耳と尻尾《しつぼ》がついてて、なんとかだにゃ〜とか寝ぼけた口調のあれ」 「は、はい。あ、ります」 「あれは動物でしょPほら、動物人気あるでしょP」 「はい、動物でした!ごめんなさい!」 愛、撃沈。次の標的は久美子《くみこ》だ。 「そしてあんた!今、ティーンに人気の……」 「人気の、なんですか?」 美佐は、頭の中に動物をあしらった美少女のスタイルを考えた。しかし、猫耳少女とバニーガールしか思い浮かばない。 「人気の、なんです?」 久美子はムムムと眉毛《まゆげ》を傾ける美佐に、不思議そうな顔をして聞く。 「ええと、だからその、人気の……」 「人気の?」 ---------------------[End of Page 125]--------------------- 「う……う、馬女《うまおんな》!」 うまおんな。そんな女、聞いたことない。 「馬女馬モテモテでしょ?」 「いや、その、馬女なんて……そんなの初めて聞いたんですけど……」 「に、ん、き、あ、る、で、しょ?」 美佐《みさ》は女神とは思えぬ形相《ぎようそう》で彼女を睨《にら》みつけた。はむかったら、きっとあのハイヒールで顔の中心を踏まれる!危険を咄嵯《とつさ》に察知した久美子は、ウンウンと大きく頷《うなず》いた。 「そ、そうですよね、人気ありますよね、馬女ね。六人の馬女ですよねー、シックスホ1スガールですよねー!」 「ねー!だから動物は男が寄ってくるのよ。ってことで、二人にはバニーちゃんになってもらったってわけ」 満足そうに講義を再開する美佐。愛は「馬女?」などと首をひねるが、それ以上追及してはいけない空気がビスバス漂っていたので黙《だま》っていることにする。 「さて、そんなわけで公園へとやってきたわけなんでございますけれどもっ」 妙な芸人口調で美佐は語りだす。そう、一行は住宅街の中にある公園へとやってきているのだ。なにかといっちゃ1公園にやってくる神山《かみやま》家のみなさん.、基本的に、そういう感じらしい(手弁当感覚が好きらしい、ということである。たぶん).、 ---------------------[End of Page 126]--------------------- 「いいかい。あんたたちには人間の相手をするのはまだ早い。実践って言っても、男を相手にするわけじゃないのよ?」 はっきり言って、バニー姿が気になってそれどころではなくなっている二人だが、一応フムフムと神妙な顔をして彼女の話を聞く。 「じゃあね、まずね、あそこに野良《のら》犬がいるでしょ。なんかこう、薄汚くてプサイクなやつ。なんじゃあれ……」 美佐《みさ》の言う通り、公園のベンチの下で犬が眠っていた。柴犬《しばいぬ》とチワワを混ぜたような混ぜないような、モソッとした感じの雑種犬である。どこからどう見ても小汚い。 「じゃあ久美子《くみこ》ちん。まずはあんたから、あれ、落としなさい」 「ええええ!落とせって、相手は犬じゃないですか!どうすればp」 モノスゴク真っ当な調子で久美子は反論したが、美佐は完全に聞く耳を持たない。それがどうした、根性があればなんだってできる、とばかりに力説する。この体育会系のノリが、日本を悪い方向へ向かわせている気がすると彼女は思った。 「なに言ってんの!あんただってウサギでしょ!同じ動物じゃないの!根性があればできるよー、きっと!夢、あきらめないで!」 「だ、だって、でも、犬ですよ?犬?さすがに犬を落とすっていうのは……」 「はい、レディー……ゴッ」 ---------------------[End of Page 127]--------------------- 「は、はいなっ!」 仕方なく久美子はバニーガールの姿で四《レ《》つん這《ぱ》いになると、スヤスヤと寝ている犬に近づく。近づいたものの、それからどーしたものかまったくわからない。助けを求めるような目つきで美佐の方を見るが、彼女はアドバイスをする気など完全にないみたいだ。 そもそも、公園でこんな格好をしているところを見つかったら、久美子や愛《あい》も困るが、一番困るのは美佐なのではないか。学校でのおしとやかなイメージとの違いとか、そういうの気にしなくていいのか。 『大丈夫、もし誰《だれ》かがきたら、女神の吐息《といき》で記憶消すから』 「う……」 しまった。どうやら、考えていることが頭から漏れて美佐の心に届いてしまったようである。テレパシーというのは馴《な》れないと不便なものだ。 『いいから行きなさい。そうしないと、あんたと佐間太郎《さまたろう》のあの夜のこと……』 「わああああ!行きます、行きますううう!」 適当に言ってみた美佐であったが、どうやら心当たりがあるようだった。なかなか侮《あなど》れない女である、久美子。 「ワンちゃあ〜ん、お昼寝中に失礼するわん。お元気ですか、わん」 一応、彼女にとっての犬語を話しながら、薄汚い犬に近づいていく。犬は目を閉じたま ---------------------[End of Page 128]--------------------- ま耳だけをピクピクと反応させた。 「ね、凡ね、凡、これからちょっとデートに行かないかわん?お返事してちょーだい?わんわん!」 久美子《くみこ》の言葉を聞いた犬は、音もなく瞳《ひとみ》を開ける。そして、牙《きば》をニュルッと口から出すと、大声で彼女に向かって吠え始めた。 「バウバウバウバウバウバウ鰻」 「はあああああああ!すみませんでした!」 さっさと美佐《みさ》の元に逃げ戻り、ハァハァと呼吸を整える久美子。 「……ダメでちた」 その一言に、美佐はブチ切れた。 「ぶってんじゃないわよー!なにかわいこぶってんのコラー!今度「でちた』とか言ったらイワすそおおお1あああんんんう冊」 「ひいいい!ご、ごめんなさいいいい!」 彼女は公園の砂を手で拾い、久美子の目にバスバスと投げつける。 「ああうう!目が1目がああああ1」 「逃げ帰ってきたバツじゃー!ひひひひひ!」 恐ろしい。なんて恐ろしいのだろう。 ---------------------[End of Page 129]--------------------- できることなら、このままさり気なく帰りたい。愛《あい》はそう思ったが、もし逃げでもしたら、さらに恐ろしいことをされるだろうと諦《あきら》める。 「しょーがないわね.、それじゃあ、あたしが手本見せるから。いい、久美fちん。ちゃんと見てんのよっ・」 「ひい、目が痛くて見られません」 「うっせ.、それじゃあ代わりに愛たん、見ておきなさい」 「は、はいいいいっ!」 美佐はトコトコと犬に近づくと、なにやら投げキッスのような動きをした。そして、ただ一言だけ、小さな声で「ワンッ」と眩《ノぶや》いた、、するとどうだろう。 「ワヒュン!ワヒャヒャヒャヒャヒャーー”」 さっきまで無愛想だった犬は、二本足で立ち上がると、両手(両前足?)を挙げながら彼女の周りをグルグルと回り始めたのだ。 「わあああ!美佐先輩すごい!っていうか、なんで犬が二本足でP」 「おーっほっほっほ!これこそ愛の力よ1愛がポチ(仮名)を進化させたのよ!」 愛は目の前で起こっていることが奇跡に思えた。なんてことだろう、犬が二本足で嬉しそうに歩き回っているのだ!しかも、ちょっと軽くダンスステップさえ踏んでいるのだ!もっと言えぱ、たまに「ラブだぜ」とか「イェイ」とか、低く渋い声で日本語を喋《しやべ》 ---------------------[End of Page 130]--------------------- っているのだ!さすが女を磨いている人は違う!素直に感動する愛《あい》であった。 しかし、そんな奇跡を前にしてテンションを落としている者もいた。そう、久美子《くみこ》だ。 彼女は、美佐《みさ》が犬に向かって女神が使える奇跡こと「女神の吐息《といき》」を使ったのがわかったのだ。彼女が女神候補であることを知らない愛は疑うことなく喜んでいるが、久美子にとっては「そりゃそうですよ」としか言えないのである。奇跡を使って惚れさせるなんて、女を磨くということとまったく関係ないではないか。 「なに?久美子ちん、なんか不満?」 そんな彼女の視線に気づいた美佐は、地面から砂を拾って言った。 「いえ、なんでもないです!さすが美佐さん!やっぱり女を磨くって、こうじゃなきやダメですよね!」 「おっほっほ!あらやだ久美子ちんてば素直ねー!まるであたしが脅してるみたいじゃないのー!」 脅してるじゃないですかー。 「なんか言ったり」 「ひいいいいい!言ってません!」 またしても心の声を聞かれてしまった久美子。もう、どうにでもしてくれと言わんばかりの投げやりな拍手を連発する。 ---------------------[End of Page 131]--------------------- 「さあ、犬編は終わり。次はもっと難しいのいってみようかしらね」 そう言うと、薄汚い犬はダンスステップを踏みながら公園の外へと歩いて行ってしまった。せめて、あの犬への奇跡を解いてから次へ進んで欲しいものだ。 「そうね……。次はほら、あそこにポストあるでしょ、ポスト」 美佐の指差す先には、確かに郵便ポストがあった。赤くて四角い、全国どこでも見かけるスタンダードなやつである。 「愛ちゃん、あれ、ゴッ」 「えええええ!ポストですかP」 GOって言われても、相手はポストです。愛は頭を抱え、その場にしゃがみ込みたくなった。しかし、もしそんなことしたら、砂だ。目に砂なのだ.、 「は、はい。行ってまいります……」 厳しい。女を磨くというのは、なんて厳しいことなのだろう。彼女は間違った世の中の厳しさを知るのだった。 愛はポストに近づくと、とりあえず息を止めてみる。次第に苦しくなり、顔が赤くなって、そろそろ限界だーというところで呼吸をする。そして、顔を真っ赤にして一蔦.肖。 「はじめまして、ペアルックですね。同じ、赤ってことで」 「愛たんのバカー!」 ---------------------[End of Page 132]--------------------- ズサーと遠くから砂が飛んでくるのを、彼女はハッキリと目撃した。 「ひいいい!目が!目がああああ!」 久美子《くみこ》と同じように目を攻撃された愛《あい》は、バニーガール姿で地面をゴロゴロと転がる。 たぶん、一崖の問に一度、見るか見ないかの珍しい光景だよ。砂で日をやられたバニーちゃんが、公園でゴロゴロと転がりまわるという、そんな姿。 「あんたね、小粋《こいき》なジョークで始めてどうすんの!もっと魂を!ソウルを入れなさい、ソウルを!そんな軽い気持ちじゃ磨けないわよ!女はあっ!」 いや!、まったくもって美佐《みさ》の言ってることはメチャクチャである。 しかし、もう自分の順番は終わった終わったと、久美子は安心してニコニコと笑いながらその光景を見ていた。 「油断すんなー!」 が、美佐は突然振り向くと、彼女に向かって砂を投げつける。 「あああああ!目が!目が1」 「あんたね、自分はもう終わりました、みたいな顔してると、今度は砂じゃ済まないよ!砂鉄《さてつ》いくよ、砂鉄!」 「すみませんでしたあああああ1」 たぶん、今、現在、日本で一番治安の悪い場所はここだろうな。 ---------------------[End of Page 133]--------------------- 「落ちこぼれのダメダメ生徒が二人なので、あたしがお手本を見せます。いい?ちゃんと見てなさいよ?」 そう言うとスーツ姿の彼女は、必要以上にお尻《ししり》を振りながらポストへと近づいた。 そして、また先ほどと同じように投げキッスを一度すると、今度は黙《だま》ってポストを見詰め続けた。最初に異変に気づいたのは愛だった。 「ああ!ポストが赤くなってる!」 「えつ・ポストは赤いものでしょう?」 「久美子さん、そうじゃなくて!もっと赤くなってる!」 彼女の言う通り、ポストはより赤くなっていた。もうこれ以上ないっす、これ以上の赤は、どこ探してもないっすよ、という赤になったかと思うと、本来は手紙を投函《とうかん》する部分から、勢いよく封筒を噴き出した。プサササササという音と共に、様々な形の封筒が飛び出てくる。 「おっほっほ!愛たん!一通拾って読んでみなさい!」 「えP”は、はい……。えーと、あ!この封筒、ラブレターですよ!」 久美子も同じようにして封筒を拾うと、ハートマークのシールで封がしてあった。これは、やっぱり、ラブレターであろう。つまり、ラブレターばっかりを噴出させているのは、この郵便ポストなりの愛情表現ということになる。さすが、女神の奇跡だ! ---------------------[End of Page 134]--------------------- 「おっほっほっほ!あんたたち、まだまだいろいろな物を落とすわよー!」 それから一時間ほどにわたり、カタツムリ、ベンチ、アイスキャンディー、砂場、消費税、なんかポヤーンとした感じのサラリ!マンなど、様々なものを美佐《みさ》は落としていった。 愛《あい》は彼女が相手を落とす度に感動し、なぜか自分も「できる!」という自信をつけていくのだった。 「……ふふ。もう二人に教えることはなにもないわね」 大事なことだけを端折《はしよ》りつつ、美佐の女を磨く講座は終わった。 「ありがとうございました美佐先輩!わたし、進一《しんいち》くんを夢中にさせられる自信がついたような気が、すごくボンヤリですけどします!」 愛は涙を流しながら美佐に抱きつく。いやいや、そんな曖昧《あいまい》な確信を持たれても……などと久美子《くみこ》は思うが、涙を流し抱き合う二人に口を挟めるわけもない。 「それじゃあ愛たん。美佐先生は、進一くんが駅の近くの雑貨屋さんにいるとの情報を手に入れたので、そこにバニi姿で登場しようではないか」 どこで手に入れた情報なのかは一切わからないが、先生がそう言っているのだから仕方がない。 目の前で行われた奇跡の数々に、愛は彼女に対して疑問すら持たなくなっていた。 「はい、わたし、このバニー姿で進一くんをメロメロにさせます!」 ---------------------[End of Page 135]--------------------- 「もちろん久美子ちんも見にくるでしょ?女を磨いた少女が花を咲かせる瞬間を!」 正直、家に帰ってテレビでも見ながら、おばあちゃんのポタポタ焼きでも食べていたかったが、気楽に断れるような空気ではなかった。 「は、はい。ぜひ、お供します……」 こうして三人は、妙な自信を持ちつつ雑貨屋さんへと向かうことになる。 「さあ、愛たん。どうだね?」 「はい、やれる、って感じがするであります」 菊本《きくもと》駅から徒歩二分ほどの場所にある、踏切近くの雑貨屋。その窓に顔を貼《ま》り付けながら、三人は中の様子をジロジロど劉力っている。視線を動かす度に、お騒についた白い騰感がフルフルと小さく動く。久美子は恥ずかしいのか、お尻に手を当てて隠しているが、愛は進一を捜すためにそれどころではないらしい。 バニー姿の女子高生がそんなことをしているのだから、通行人は「なんだ?なんかの撮影かり.」と足を止める。そういう人々が五人以上集まると、美佐は不意に振り返り「きしゃー!」と意味不明の奇声を発しながら砂鉄《さてつ》を撒《ま》き散らし、彼らを追い払うのだった。 その、四人まではOKという線引きもよくわからない。 「あ!愛たん、あれじゃないのP”ほら、あの沼から出てきたっぽい顔の」 ---------------------[End of Page 136]--------------------- 「進一《しんいち》くんの悪口言うの止《や》めてください!」 「え?誉め言葉誉め言葉」 「そ、そうなんですか?じゃあ、いいです」 などという会話をしながら、店内にあるアクセサリー売り場で進一を発見する。愛《あい》は唇を噛《か》みながら、ムキイと低い声で言った。 「あれ、絶対に他《ほか》の女の子へのプレゼントですよ……。まったく」 久美子《くみこ》は次第に人相が悪くなっていく彼女に対して、必死にフォローを入れる。 「ほら、もしかしたら愛さんへのプレゼントかも知れないじゃないですか」 それに続いて、美佐《みさ》は軽い口調で言った。 「もしかして久美子ちんへのプレゼントかもね」 「…………フンガフンガフンガフンガ!」 鼻息を荒くした愛は、無言で久美子に文句を言う。憶測なのに責められては久美子もたまらない。そんな時、美佐が驚いた声をあげた。 「あ、花子だ」 「え?花子?」 愛が進一の方を見ると、確かに彼の隣には花子が立っているのが見えた。しかも、シル ---------------------[End of Page 137]--------------------- あっている。結局進一《しんいち》は、二つの指輪をレジに持っていってお金を払った。 「ちょ、ちょっと先生!あれなんですか!どういうことですか!」 「さあ?あたしに聞かれても……」 「ちょっと久美子《くみこ》さん!あれ、どういうことですか!」 「さあ?わたしもそこまでは……」 「ちょつとそこの通行人!どういうことよ!」 「えP”俺P”なにP」 「そこのソバ屋の出前さん!どういうことよ!」 「すんません1すんません!もう着きますから!」 愛《あい》は怒りのあまり、目に付く全員に問い詰め始めた。大声を出しては進一にバレてしまうと、美佐《みさ》は愛を引きずって雑貨屋の裏手まで移動をする。 人気《ひヒけ》のない場所にくると、張り詰めていた気持ちが崩れてしまったのか、愛は大声を出して泣き始めた。かと思ったら、ズズズズズズと鼻水を勢いよくすすり、額に血管を浮かべながらこう言った。 「美佐先輩、わたしもう女は磨きません!進一くんとは絶交する覚悟ができました!」 「そうだね。それがいいかも知れない。あんな女ったらし、絶交してやんな」 美佐も、彼女の気持ちが真剣なのはわかっているので止めようとは思わない。 ---------------------[End of Page 138]--------------------- 「します。絶交してやんます」 やんますってなんだろう。 「だけどね、バニーじゃ絶交できない。バニーじゃ男は喜ぶだけだから。絶交するのにピッタリの衣装を考えたから」 「なんですか?どんな格好ですか?」 「それは……」 絶交。こちらからの決別だけでは成功しない。相手からも決別されなければならないのだ。美佐は、年頃《としごろ》の男の子が見たら「うわ、絶交したい」と思うであろう洋服を愛のために用意した。 それから数時間後、愛は学校からそれほど遠くない場所にある公園にいた。 美佐と久美子は、ベンチの陰に隠れて事の成り行きを見守っている。 愛のために美佐が選んだ洋服とは、侍《さむらい》だった。 なぜ侍。そう久美子は思ったが、美佐があまりにも自信満々だったので口を挟むことはしなかった。しかも、愛はチョンマゲのヅラや刀などをつけながら「これ決まりですね」 などと言っている。確かにこの異様な姿を見れば、大抵の男子は「あ、パーになった」と思って恋心をなくすだろう。確かに絶交するという作戦は成功するが、その代わりに大切なものを失うのではないかと久美子は思った。えーと、常識とか。 ---------------------[End of Page 139]--------------------- 美佐《みき》は心の声を使って、佐間太郎《レコロまたろう》に進一《しんいち》を公園に呼び出す手はずを整えた。彼は最初「なんで俺《おれ》がP面倒だし!」と断ろうとしたが、「あんたと久美子《くみこ》のあの夜こと、みんなに言うよ」と適当に言うと「わかった」と納得した。あてずっぽうで言っただけなのだが、なにか心当たりがあったのだろう。なかなか侮《あなど》れない一.人である。ただ、その後《あヒ》に佐間太郎の言った「エチケット袋の件は内緒にしてくれよな」という一言が理解できなかったが。 しばらくして、公園に進一がやってきた。最初、キョロキョロと辺りを見回していたが、偶然そこにいた侍《さむらい》が愛《あい》だと気づくと、思わず大声をあげる。 「な、なんだ、その格好P」 愛の姿に驚いた進一は、今度は笑い出した。なにせ、格好が格好である。仕方ない。 「わたし、実は侍だったんです!だから、もう、絶交してください1鎖国でござるます!イン・ザ・ジパング!」 「なんだそりゃPいきなりなにを言い出してんだよP」 公園のベンチの陰に隠れて見ていた美佐と久美子《くみニ》は、どうなることかとハラハラと見守る。どっちかというと、警察がきませんように、というハラハラの方が大きいのだが。 あんな姿の女子高生がいたら、たぶん捕まる。 「だって、どうしてだよ。頭でも打ったのかつ・」 「そんなことどうだっていいの!とにかく、もうわたしと進一くんは絶交なの!二度 ---------------------[End of Page 140]--------------------- と会わないの1止めないで!止めないで1ござるござる!」 「なんでそんなこと言うんだよ。イキナリ過ぎて意味わかんねえよ」 「もう、進一《しんいち》くんなんて大嫌いだもん。女なんて磨いてやんないもん!」 「落ち着けって、な?むしろリラックスしろ、リラックス」 彼にそう言われても、愛の興奮は収まらない。なにせ、花子《はなご》とのデートを目撃してしまったのだ。 「わたしより花子がいいんでしょ!知ってるんだからね!」 「花子って誰だよ1俺は愛ちゃんがいいんだぞ?わかってんのか?」 わたしがいい。素直に喜べない。花子とのデートを見なければ、嬉《うれ》しい一.肖葉だったはずなのに。 「そんなの、嘘《うそ》ばっかりだよ。だ、だって進一くんてば、すぐ他《ほか》の女の子にデレデレするしさ……。もう、わたしどうしたらいいのかわかんなくなって……」 愛は、そんな姿にもかかわらず泣き出した。いや、姿は関係ないのだが。 「おい、泣くなよ。そんな泣くなって」 彼は慌《あわ》てるが、どうすればいいのかわからずにただうろたえる。 「わたし別に進一くんのことなんて娃きじゃないもん。だけど、そんな性格だったら困るのは進一くんじゃない。だから、だから、せめてわたしのことを……」 ---------------------[End of Page 141]--------------------- 「愛《あい》ちゃん……」 進一《しんいち》は目の前で泣く愛が愛《いと》しく思えた。たとえ、思わずプッと吹き出しそうな姿をしているとしても、人間は外見ではなく内面である。いじらしい彼女のことがかわいいと思った。 「泣くな泣くな。そうだ、愛ちゃんにプレゼントがあるんだよ」 彼はそう言うと、カバンの中から小さな包み紙を取り出して彼女に渡した。雑貨屋で花子《はなこ》と一緒に買っていたものだと、愛はすぐにわかった。 「これ……花子の……」 「だから誰?花子って?」 彼女は戸惑いながらも、その包みを受け取る。中に入っているものはなにかわかっている。もちろん、指輪だ。 「ほら、俺って彼氏らしいこと愛ちゃんにしてあげてないじゃん?だから、プレゼントをって思って。まあ、愛ちゃんにとっては彼氏じゃないらしいけどさ。でも、俺にしたら愛ちゃんは彼女みたいなものだから」 進一は時折声を詰らせながらそう言った。彼らしくない、真面目《まじめ》な調子で。 「そっか……。でもこれ、女の人と選んでたでしょ?」 「えつ・見てたの?そう、先輩に、女の子はどういう指輪がいいか選んでもらってたん ---------------------[End of Page 142]--------------------- だよ。ほら、俺《おれ》ってそういうのわかんないからさ」 「そうなんだ……進一くん……」 ということは、二個買ったのは花子とのベアリングではなく、進一と愛のものだったわけだ。 「嬉しいよ、進一くん……わたし、嬉しい……」 変な格好をしながらも、愛は進一に抱きつく。シルバーのリングはお月様のように輝いていて、見ているだけで吸い込まれそうな美しさだった。 「ほら、その格好には似合わないかも知れないけど、はめてみて」 彼はケースの中からリングを取り出すと、愛の指にそれを通した。彼女の小さな指の上で、シルバーはピカピカと光る。 「ありがとう。こんな格好でなんだけど、ありがとう……」 彼女は進一をゆっくりと抱きしめた。彼も、侍姿《さむらい》の少女を抱き返す。 「そうだ、わたしが進一くんのぶん、つけてあげる」 チョンマゲを揺らしながら愛が言うと、彼は不思議そうな顔をした。 「え?俺のぶんてなに?」 あまりにもキョトン顔の進一に、愛は戸惑う。 「えつ.って、え?.だって、ベアリングでしょう?二つ買ってたでしょう?」 ---------------------[End of Page 143]--------------------- 「ああ!あれは、選んで貰《もら》ったお礼に先輩にあげたんだよ。いやあ〜、先輩ってば、指輪とか似合うんだよなあ。早くお前も先輩みたいに色っぽくなって、その指輪が似合うようになれよ1な!」 美佐《みさ》と久美子《くみこ》は、それまでのムードが音を立てて崩れていくのを感じた。女の子にとって指輪というのは特別な物なのである。それを、同時に二人の女の子に、しかも同じタイプのものをプレゼントするとは、無神経にもほどがある。 ベンチに隠れた二人が感じたことを、愛《あい》も感じていた。それに気づいていないのは、当の進一《しんいち》だけである。 「よし、今度さ、先輩に「素敵な指輪を選んでくれてありがとう」ってお礼を言いに行こうな!それから……あれ?どうしたの、愛ちゃん?」 愛ちゃんがどうしたか。答えは、侍《さむらい》の魂が彼女に降りてきたのである。 「こらあああ1進一いいいいいい1あんたなに考えてるのよおおおおおおおお!」 「ひいいい!なにp”プレゼントあげてどうして怒られなきゃいけないのー7己 「本当に最低!本当に最悪!絶対にもう絶交だかんねー!」 侍は鞘《さや》から刀を抜くと、猛烈な勢いで無礼者に斬《き》りかかった。プラスティックでできたオモチャとは言え、それで頭をバコバコ叩《たた》かれてはたまらない。 「ごめんなさい!なんだかわからないけど、お侍さんごめんなさい!」 ---------------------[End of Page 144]--------------------- 「うるさい1絶交だって言ったら絶交だからね!バカバカバカー!」 悲鳴をあげながら公園から逃げて行く進「を、愛は侍の姿のまま追った。ああ、途41で警察に見つからなければいいのになーとベンチ姉妹は思うのだった。 「はあ。美《み》佐さん、男の人って……」 「まあ、そんなもんじゃない?まだガキだしさ……」 「帰りますか?」 「帰ろうか」 こうして二人は家へと帰るのであった。 神山《かみやま》家の庭では、ハサミを持ったメメが閉じた朝顔のツボミを見詰めていた.、 「あれ、メメちんどうしたの?間引き?」 「ううん。違う……」 イタズラしているところを見られた子供のように、メメはハサミをさっと隠す。 久美子は庭に刺してある枝にツルを伸ばした朝顔を、じつと見た。、冬だと言うのに、なかなか立派に育っている。しかし、ツボミはひとつしかない。間引きのしようがないではないか。 「メメちゃん、これは間引かなくても平気よ?ほら、お花がひとつしかないでしょ?」 ---------------------[End of Page 145]--------------------- メメは、もどかしげに答える。 「でも……」 「世話するのあきちゃったのつ・だから切ろうとしているの?」 「違う」 「じゃあどうして、たったひとつしかないお花を切ろうとするの?」 「……なんでもないっ」 彼女はそう言うと、家の中へと走って行ってしまった。美佐《みさ》と久美子《くみこ》は顔を見合わせる。 なにか気に障《さわ》ることでも言っただろうか? 「メメちゃん、なに考えてるんでしょうかね?」 「さあ?あの子、[数少ないからわかんない。悪い子じゃないんだけどね、なかなかどうも難しいね。まあいいや、さ、お家に入ろう」 「はいっ」 二人もメメの後を追い、玄関へと消えて行った。 すると、さっそく中から「バサッバサッ」と服を脱ぐ音と「だからわたしのカバンに下着を入れないでください!」という久美子の声が聞えてくるのだった。 ああ、平和な日本だね。素敵な世田谷《せたがや》だね。 ---------------------[End of Page 146]--------------------- 第四章クラゲ少女 『ジリジリジリと目覚まし時計が鳴った。大好きなアニメのキャラクターの形をした時計.起してくれる時、声かベルを選べる時計。 わたしは声がいいんだけど、お母さんは「あんたはそれじゃ起きないからベルにしなさい」って言った。だから、ベルが鳴っている。あんまりカワイクないので嫌だな。 一応は起きたけれど、なんだかまだ眠い。またちゃんと眠れなかった。 先生はなにも心配することはないから、きちんと寝なさいって言うけれど、目が覚めると体に傷があって痛くて、それが怖くてなかなか眠れない。 きつと、寝相がひどく悪いんだと思う。もうちょっと大きなお布団《ふとん》にするか、きちんと大人しく眠れるようにしなくっちゃ。 せめて眠っている時のことを覚えていればいいんだけど、いつも忘れてしまう。 夢は見ない。覚えているのは、怖いおばさんに叩かれる夢。やだなーって思う。 わたしはパジャマをなんとか脱いで、顔を洗って歯を磨いて制服に着替えた。朝ゴハンはお母さんが起きてこないからコンビニでジャムパンやクリームパンを買って食べるのが日課になっている。 ---------------------[End of Page 147]--------------------- 部屋を出て玄関でスニーカーの靴のヒモを結ぼうとしていると、ようやく眠そうな顔をしたお母さんがやってきた。きっと、昨日も誰《だれ》かにお説教をしていたのだろう。 お母さんは溜《た》め息《いき》をついてそういうことを話す。 「昨日は悪かったわね」 って。眠る時に一緒にいてくれないことを気にしているんだろうか。そんなこと気にすることないのに。わたしは一人でだってちゃんと眠ることはできますよ。うん、あんまりグッスリじゃないけど、なんとか、ウトウトって。 お母さんはわたしの頬《隷35》にキスをしてから、玄関にしゃがみこむ。自分の靴を履くためじゃなくて、わたしの靴ヒモを結ぶためだ。 「あんたがもうちょっとお利巧さんだったらねえ。靴のヒモぐらい一人で結べるようにならないとね」 「あう。ごめんなさい……」 わたしの靴ヒモを結ぶと、お母さんは頭を何度かポンポンと叩いた。わたしは、バカでごめんなさいと思った。お母さんに迷惑をかけているのかなあって考えた。 「そうだ、新しいお姉ちゃんできるかも知れないから」 「えPお姉ちゃんPほんとうP」 「うん。それから新しいパパもね」 ---------------------[End of Page 148]--------------------- 「新しい……パパ?」 新しいお父さん。新しいパパ。それは、あんまり欲しくないかも知れない。前のお父さんは意地悪だったから。 「ほら、行ってらっしゃい」 お母さんはわたしの背中を軽く押した。転がるように玄関を飛び出して、そのまま四階から一階まで階段をトトトと走る。この速さはまるでロケットだな。 わたしはもつともつとスピードを出して道路に飛び出した。学校は楽しいけれど、辛いこともある。楽しいことは好きな人に会えること。辛いことは、いじめられるかも知れないこと。 それでも学生は学校に行かなくちゃいけないから、わたしは学校に行ってる。 お母さんは、高校生になったら、少しは頭がよくなりなさいって言った。だけどわたしは、昔のわたしとあまり変わらないまま、そのままのわたしで高校へ入学した。 普通の学校に行けるだけでも幸せなことだってお母さんは言った。確かにそうだと思う。 変な学校には行きたくない。でも、変な学校ってどんな学校のことなんだろう。 でも計算ができる限り、わたしは、ある程度の学校に行けるのだそうだ。ある程度の学校ってなんだろう。 ……わたしは、計算が得意なの。クラスの他《ほか》の誰《だれ》もできない計算ができるの。なんでか ---------------------[End of Page 149]--------------------- 自分でもわからないけれど、数字が頭の中にパッと浮かぶ。カレンダーとか時刻表をよく読んでいたからかも知れない。そういう数字が頭の中にいっぱい詰っているのかも知れない。だけど、昔のことはあまり覚えていないの。昨日のことだってぼんやりとしか覚えていないから、物忘れが激しいのかも。 空はいつもと変わらずに晴れていた。雨の日ははあまり好きじゃない。わたしの頭の中では、空と言ったらいつも白い雲がモコモコと浮かんでいる、爽《さわ》やかなものだ。 通学路で何人かのクラスメイトとすれ違う。おはよう、というわたしの声が響く。 それから。それから、わたしは今Hが特別な日になりそうだな、っていう予感を感じる。 素敵なことが起こりそうな、昨日までとは違うHになりそうな一日なのかな、って.、でも、それは毎日感じていることだ。そうしないとわたしは、不安で押し潰されそうになってしまうから。 不安。なんの不安だろう。自分でもわからない。ただ、このままずっと今のまま暮らしていけないんじゃないかなって思う。白い服の人でも黒い服の人でも、もちろん赤い服の人だって、まあ、誰でもいいんだけど、そういう人たちがわたしをどこかに連れていきそうな怖さがある。 なっちゃんにそれを話したら、ばかだね、それは思い込みだよって言われた。 「おはよ……う」 ---------------------[End of Page 150]--------------------- わたしの胸が、針を飲み込んだみたいに痛くなった.、それは、校門のところに好きな人がいたからだ。彼はわたしに挨拶《あいさつ》をしてくれる。 「ああ、おはよ」 ぶっきらぼうだけれど、とても嬉しい。その声は、わたしの手足を熱くさせる。 あんまり彼のことは見ないようにしている。だって、たくさん見てしまったら、わたしは本当に本当に熱くなってしまって、体の全部が溶けてしまうかも知れないから。 それは恋なんだ、ってなっちゃんは教えてくれた。あんたでも恋、するんだね、って。 おかしそうに笑った。わたしもつられて「えへへ」と笑った。その時のことを思い出すと幸せな気持ちになるから、ちゃんと覚えてるよ。 だけど、彼に直接会うと幸せな気持ちどころか苦しくなる。先生に言った方がいいのかなって思ったけど、なんとなく怒りそうだったから黙《だま》っていることにした。 先生はわたしが他《ほか》の男の人と仲良くすると、どうしてか機嫌が悪くなるの。そういう場合、わたしは悪い子なんだって怒られるから、黙っておしおきを受ける。 彼のことや胸が苦しくなること、放課後の教室で「えへへ」となっちゃんと笑ったことは秘密にしようと心に決めた。 彼は図鑑を読んでいた。わたしはなんでそんなものを読んでいるのか気になって、後ろからコッソリ覗《のぞ》いてみる。 ---------------------[End of Page 151]--------------------- 「なに見てんだよ……」 すぐにバレてしまった。わたしは背が低いから、すごく近づいてッマサキ立ちをしないと覗けなかったからだ。彼はわたしを見て、笑った。胸が苦しいのが大きくなった。 ドキドキと心臓が動いている。普段から動いているくせに、どうしてこういう時だけ自己主張するんだろう。 「わたしはここにいるよ、早く出して」 わたしの心臓がそう言ってるみたいだった.、 「ごめんなさい、、なにを読んでたのか、気になったから」 人差し指で矢印を作って、わたしは彼の持っていた図鑑をチョイチョイってした。 「これ?クラゲ大図鑑。すげえよ、クラゲのことばっか。ゴ.百六十度大クラゲパノラマ・幻の陸クラゲのイラスト入り!なんだそりゃって感じだけど、本当なんだってば」 普段なら「うるさいな」って言う彼が、その時は柔らかい笑顔を作って言った・・ そんなこと今までなかったことだったから、わたしはビックリしてしまう, 「クラゲつ・クラゲの図鑑?」 「そう。見る?」 「見る。ごめんなさい、ちょっと貸して」 彼の手から、重そうな図鑑がわたしの手に移動する。その時にちょっとだけ指先が触れ ---------------------[End of Page 152]--------------------- て、まるでそこが心臓になったみたいにドクンドクンてする.、「わたしはここにいるよ、早く気づいて」って言ってるみたいだった。 ページをめくると、彼り.尊つ通りクラゲしか載っていない。.ページ目から最後までずっとクラゲ。白いフワフワとしたクラゲが、クッキリとした写真で写っている。 わたしはクラゲにもいろいろな種類があるんだなって思ってビックリした。白い絵の具がついた筆を、お水で洗う時みたいな、お水にプワンて広がる、絵の具の、カケラ、みたいな、クラゲ。コンセントがどこかについているんじゃないかと思うような、クラゲ。 食べられそうなクラゲ。食べたくないクラゲ。大きいクラゲ、小さいクラゲ。 「クラゲ、一匹ぐらい欲しいよな」 「え?クラゲって飼えるの?」 「飼える。それっぽい水槽があれば」 それっぽい水槽ってどんな水槽なんだろう。わたしはそれを彼に聞きたかったけれど、あんまりいろいろと聞くと怒られると思って黙《だま》っていた。 これは、うちのお母さんとお話している時に考えたことだ。いろいろ聞くと、お母さんは怒ることがある。だからわたしはなるべく多くのことを聞かないようにして、本当に知りたいことだけを質問するようにした。あとは、それこそ部屋の中をクラゲみたいに、ただ黙ってプクプクと漂うようにしている。 ---------------------[End of Page 153]--------------------- 「ヒューヒュー熱いね1」 校庭から男子の声がした。彼はその声を聞いて舌打ちすると「そんなんじゃねえよ」と言った。わたしの持っていた図鑑を乱暴に掴《つか》むと、そのまま校舎の方に走っていく。 すごく不思議だった。どうしてわたしが「熱い」ってことを、あの男子は知っていたんだろう。もしかして顔が赤くなっていたのかな。だったらすごく恥ずかしい。胸が苦しくても顔が赤くならない方法をどこかで覚えなくちゃいけないなってわたしは思った。 それからのわたしは、授業が始まっても放課後になっても、ずっとクラゲのことばかり考えていた。 わたしは決めた。クラゲを取って、彼にプレゼントしようって。クラゲってどこにいるんだろうっ.きっと水のある場所にならいるに違いない。いなくても探せば見つかると思う。家に帰ったわたしは、部屋の押入れの中から長い問使っていない水槽を見つけた。 お母さんが熱帯魚に興味を示して、水槽だけ買ってそのまま旗《ほう》っておいたものだ。 大きさはみかんのダンボール箱ぐらいあるから、大きなクラゲを捕まえてもこれになら入ると思う。きっと彼は驚くだろうな。喜んでくれるだろうな。 次の日から、朝早く起きてクラゲを探すことにした。お母さんは普段のわたしがねぽすけなのを知っているから「頭の打ち所が悪かった?」と心配した。 ---------------------[End of Page 154]--------------------- でも違うのよ、そうじゃないの。これは、好きな人へのプレゼントなの。 最初の日、水槽を抱えて通学路をフラフラと歩いた。、クラゲがどこにいるかなんてわたしにはわからない.、水さえあれば生きていけるだろうから、池とか川にいるんじゃないかな、通学路の途中には汚いけれど川が流れていて、そこの河川敷に水槽を隠した。 そしてそのまま、毎朝クラゲを取るために、学校が始まる二時間前に起きて川の中を手ですくった。 水は冷たかったけれど、気持ちよかった。空き缶やゴミを避けながら、半透明の白いフワフワを探す。靴と靴下を脱いで、膝《ヘノさ》まで水に人ってフワフワを探す。 だからわたしはその日以来、学校にはヒモの結んでいないスニーカーで登.校することになった。なっちゃんは「しょうがないなあ」と言ってお母さんの代わりにヒモを結んでくれた。ああ見えて優しいんだよ、なっちゃんは。 なっちゃんは「どうしていつも足が濡れてるの?」って聞いた。でもわたしは答えなかった。これは誰にもなっちゃんにも秘密の、大作戦なのである。もし彼の耳に入ってしまったら、クラゲをプレゼントした時のビックリがなくなっちゃうからね。 だからわたしは毎朝コッソリ、一人でクラゲを探し続けた。足の皮が剥《む》けて、ドブの臭《にお》いがちょっとするようになったけど、辛くはなかった。いつかクラゲを見つけて、彼にあげることができるんだったら、そんなことなんとも思わなかったよ。 ---------------------[End of Page 155]--------------------- 「あんたさ、川でしょ?川でしょ?」 なっちゃんはそう言った。わたしはアタフタしてしまって「ちぢ、違うよお」と、プラスティックみたいなツルツルの声でしか答えられなかった。 「そうなんだ。フーン。なんか探してる?」 「……うん」 「なに?」 「クラゲ」 結局は観念して言ってしまった。いつもそうなの。なっちゃんに隠し事はできない。どういうわけがすぐにバレてしまう。 「あそこの川にクラゲなんていんの?」 「わからないけど探してるの」 「あっそ。まあ、どうでもいいけどさ」 その日以降、なっちゃんはクラゲの話題をしなくなった。きっと忘れちゃったんだと思う。よかった。これで彼への秘密のプレゼント作戦を続けることができる。 数日後、いつものようにクラゲを探していると、突然彼が現れた。 どうして彼がここに来たのか、まったくわからない。せっかく川から拾った空き缶を、思わずそのまま全部落としてしまった。 ---------------------[End of Page 156]--------------------- 「お前、毎朝ここにいるんだって?」 そう彼は言った。少し困ったような顔をしているのがわかる。もしかしてわたし、彼のこと傷つけちゃったのかも知れない。許してもらえるといいな。 「なに探してんの?」 「クラゲ」 「……マジでそうだったのかよ……」 どうしよう。彼にプレゼントしようとしていること、わかっちゃったかな。わかるに決まってるよね。ってことは、わたしが彼のことを好きだってこともわかるだろうか。 彼はわたしの近くまで歩いてくると、隠してある水槽を見つけてプッと吹き出した。 「こんなにデカい水槽まで用意して……お前、本当にバカだなあ……」 はう。バカって言われてしまいました。そうです、まったく否定できません。だけどね、わたしにはこういうことしか思いつかないんだ。ごめんなさい。 「お前さ、俺《おれ》のこと好きなんだってな。知ってるけどさ」 なんてことだろう。彼はわたしの心が読めるのかな。返事なんてできない。どう返事をしろって言うの。わたしは急に自分の格好が恥ずかしくなった。足まで川に浸かってクラゲを探す自分の姿が、情けなく感じられた。 「うう……その……あの・…・・」 ---------------------[End of Page 157]--------------------- 否定することなどできない。だって、そうなんだもん。でも肯定はもっとできない。できるわけがない。そんなことしたら、わたしは恥ずかしくて死んでしまう。 「俺と付き合いたいなら付き合ってやるよ」 彼はそう言った。付き合うっていうことがどういうことか深くは知らないけど、その言葉を聞いた瞬間に川の水が全《すべ》て蒸発してしまいそうなほど体温が急上昇した。 「じゃ、ま、そういうことだから。明日からは俺も探すよ。クラゲ」 どうしよう。彼と二人でなにかをするなんて考えられない。困る。わたしはずっと困りっぱなしになってしまう。そんなわたしの考えなど知らず、彼は翌朝から本当に一緒にクラゲを探してくれるようになった。 よっぽどクラゲが欲しかったんだろうか。それとも、他《ほか》になにか理由があるのかな。もしかして、わたしのことをからかっているのかも知れない。だけど、こうして一緒にいられるだけでもすごくすごく素敵だなあって思う。 そしてわたしと彼は、「付き合う」ことになった。 わたしに生まれて初めての彼氏ができた。 最初はあまり話してくれなかった彼も、日を追うごとに口数が多くなっていった。初日は挨拶《あいさつ》だけ。次はちょっとした世間話。それからそれから……といった具合に。 こんなふうに少しずつ打ち解けることが付き合うってことなんだろうか。だとしたら、 ---------------------[End of Page 158]--------------------- どんなに心地よくて、どんなに素晴らしいことなんだろう。 でも、会話が多くなるにつれて、わたしは未来のことが怖くなった。この関係がいつか崩れてしまうとしたら、それほど仲がいいわけでもないけれど、ずっと知り合いのままでいるという方がいい。付き合って、別れて、そのままずっと口をきかなくなってしまうよりもずっといい。わたしはそんなことばかり考えていた。 「お前って結構イイコだよな」 朝だけでは時間が足りなくなってしまって、放課後も一緒にクラゲを探すようになった頃《ころ》、彼は不意に言った。イイコだなんて、そんな、こと、ないのに。 その言葉がとても嬉しかった。そのままでいいんだよって許された気持ちになった。 わたしはわたしのままで生きていていいんだよ。誰《だれ》とも比べる必要もないし、誰かになろうなんて思わなくてもいいんだよって。全然そんなこと彼は言ってないのに、とにかく、そう感じてしまったの。 お返しの言葉を言わなくちゃって思った。わたしの心をこんなに穏やかにしてくれた彼の言葉のような、彼のためになる言葉。だけどわたしは、そんな言葉を持っていなかった。 たったひとつだけ思いついたのは、「好きです」という言葉。 だけど、そんなことをわたしが彼に言ったところで、彼はなんとも思わないに違いない。 もしかしたら迷惑かも知れない。 ---------------------[End of Page 159]--------------------- だからわたしはクラゲを探すことに集中した。余計なことは考えないように。 その時、急にほっべがあったかくなった。なんだろう.)どうしたんだろう。 見ていると、彼の顔がずっと近くにあった。すぐ、本当にすぐ近くに彼の顔があった。 彼は目を閉じていた。わたしは今すぐ逃げてしまいたいと思ったけど、彼のことを真似《まね》して同じように目を閉じた。.きっと数秒のことだったんだろうけど、それは何時間にも感じられた。わたしのファーストキスは、クラゲ探しの最中。 「俺、もう帰るから」 彼は茶色の瞳《ひ●二み》に水面を映してそう言って笑った。わたしは彼の言葉に気づかない振りをして、ずっとクラゲを探していた。だって、どうすればいいのかなんてわからない、. こんなに不思議な気持ちになったのは生まれて初めてだと思う、. 「また明日」 川のせせらぎに消えてしまうような小さな声で彼は言った。 それから数時間後、わたしは一匹のクラゲを見つける、、 それはコンビニのビニール袋が溶けたようなクラゲだった。図鑑で見たようなキレイなクラゲじゃなかったけれど、それでもクラゲはクラゲ。水槽に水を張ってクラゲを入れると、彼にすぐプレゼントしたくて仕方なくなってしまった。 だけどわたしは彼の家を知らない。でもね、でもね、でもね、クラゲだって見つかった ---------------------[End of Page 160]--------------------- んだから、彼の家だって探していれば見つかると思うの。 わたしは重い水槽を抱えて、学校の周りを一人で歩き続けた。 クラゲと同じように彼の家はなかなか見つからなかった。もう家にこの水槽を持って帰る元気もない。手足が痺《しぴ》れて、ジリジリとお日様に焼かれてるみたいだ。 学校の近くだというのをいいことに、わたしは教室かどこかに水槽を置いておこうと考えた。そうすれば明日、朝一で彼がクラゲを見つけることになる。 その時の彼は、どんな顔をするだろうか。もう一度、ほっぺにキスをしてくれるだろうか。何度も何度も途中で休憩しながら、わたしは校門の前まで辿《たど》り着いた。 その時、門柱の陰から声が聞えた。 「なあ、どうすればいいんだよ。あいつ本気じゃねえの?ちょっとカワイソウだろ?」 「いーじゃん。どうせよくわかってないみたいだしさ」 彼となっちゃんの声だ。わたしの胸は、ドキドキドキドキドキする。 なんでかとても痛い。うう、痛いよう。 「あいつ、俺《おれ》とお前のこと知らないんだろ?もしバレたら傷つくそ」 「大丈夫。バレやしないって。あの子、疑《うたぐ》るなんてこと知らないんだしさ。わたしとあんたが付き合ってるなんて、気づいたりしないよ」 そう言ってなっちゃんは彼にキスをした。唇と唇がマシュマロをふたつ合わせたように ---------------------[End of Page 161]--------------------- くっついて、歪《ゆが》んで、離れた。とてもよく似合ってるなって思った。 「お前、本当に趣味悪いよな。あいつの友達なんだろ?なんで俺とあいつを付き合わせようなんて思うんだよ」 「だってあの子、あんたのために毎朝クラゲ探してんでしょ?かわいそうじゃん。少しぐらい夢見させてあげてもバチは当たんないよ。趣味悪いどころか、いいことしてんじやんね、兀」 その時のなっちゃんは、いつもと違っていた。学校では禁止されているはずのお化粧をしていたし、なんというか、すごく大人に見えた。 「あんたさ、あの子にキスしたでしょ?本気になってんじゃないの?」 「バカ言うなよ!なんで俺があんな奴《やつ》に。ただ、からかっただけだよ……」 「そうなの?本当かなあ……?」 どうしよう。どうしよう。盗み聞きしていたことがバレたら、なっちゃんにも彼にも嫌われちゃう。そういうのが怖い。誰《だれ》かに嫌われるのが一番怖い。日丁くこの場所から逃げなくちゃ。 慌《あわ》てて走り出したわたしは、校門の前の電柱に正面からぶつかった。水槽がアスファルトの上に砕け散って、中からクラゲがフワフワって地面に出た。 「おい!誰かいるのかP」 ---------------------[End of Page 162]--------------------- 彼の声がした。誰もいません、って思った。わたしは必死で走った。どこに走っているのかわからなかった。だけど走った。体中が心臓になったみたいだった。 わたしはここにいますよ、わたしはここにいますよって彼に伝えたがってるみたいだった.、頭の中が真っ自になる。気がつくと、いつもクラゲを探していた河川敷にいた。 そこからわたしは一歩も動けなくなった。わたしはここにいますよ。 遠くから誰かの走る音が聞えてくる。誰か、じゃない。彼の走る音。 「お前……。全部聞いてたんだな」 わたしの大好きな彼は、怒っているのか困っているのかわからない顔をしていた。 「その……聞こうと思ってたわけじゃなくて……こめ……その……」 「まったく……知らなくていいことを知りやがって」 彼の目がどんどん赤く染まっていく。泣いているんだろうか。どうして?わたしはそんなに悲しいことを彼にしてしまったの。わたしは彼を傷つけてしまったの。 「お前が付き合いたいって言ったから付き合っただけだろ?俺《おれ》は悪くねえよ。そうじゃねえのかよ!」 「ごめんなさい!でも……」 「でも、じゃねえ!勝手にしゃべんな!お前の声なんて聞きたくねえ!二度としゃべんな!こうなったも全部お前のせいだ!」 ---------------------[End of Page 163]--------------------- 「…………」 「お前なんて、いらねーんだよ1」 ごめんなさい、って言いたかった。わたしが本当に悪いんだから。 彼と付き合いたいって思ったのも本当。わたしがいらないのも本当。イライラさせてごめんなさい。 だけど、わたしは声を出すことができなかった。唇を動かしてもどうしても、言葉が上手《 つま》く出てこないようになった。ゆでタマゴの黄身だけたくさん食べたらこうなるかも知れない。ノドが渇く。目が痛い。胸が苦しい。ごめんなさいって言いたいのに、わたしは彼になにも言えない。 わたしは怖くなった。このままずっと声が出ないんじゃないかと思って泣きそうになった。もし声が出なくなったら困る。ただでさえなかなか人に思ったことを伝えられないのに、喋《しやべ》ることができなくなるなんて。困る。困るよ。 わたしは空っぽの水槽みたいな気持ちで、河川敷で途方に暮れた。彼は目を真っ赤にしたまま、家に帰ってしまった。 あの。わたしは最後に彼に伝えたかった。好きなの、って、言いたかった。 でも、どうしても声が出なかった。 ---------------------[End of Page 164]--------------------- たったそれだけの言葉を綴ることができなかった。 きつと言わなくちゃ後悔するだろうなってわかっていたけど、最後まで黙《だま》ったままでいた。 たとえ「好き」って言えたところで、どうにもならないことは知っている。 ただ、伝えたかったの。あなたが好きです、って。あなたのことをずっと遠くから見ていました、って。笑顔が。笑顔が好きだったんです、って。 きっと勇気がなかったんだと思う。わたしに足りないのは、思ったことを伝える勇気。 わたしは黙ったまま、家に帰った。 マンションに着くとお母さんは泣いていた。どうして泣いているのかはわからない。 ねえお母さん、どうしたの? わたしはそう言ったつもりだったけれど、きちんと声が出なかった。 彼に言われたことが気になって、わたしは勝手にしゃべっちゃいけないんだって思った。 だから、しゃべろうにも上手《・つゐ3》く声を出すことができなかった。 わたしの聞き方が悪かったのかどうかわからないけれど、お母さんは答えない。ただ、ずっと、泣いているだけ。 大人も泣くんだなって、その時思った。大人は泣かないのかと思っていた。だって、いつも泣いたりするんじゃありませんって怒るから。 ---------------------[End of Page 165]--------------------- だから大人のお母さんが泣いてるのはビックリした。とても驚いた。 「あんたのせいで、新しいお父さんはできなかったわよ」 そうお母さんは言った。やっぱり、わたしのせい。全部悪いのはわたしなんだ。 なんだかすごく疲れた。肩こりって、こういうことを言うのかも知れない。肩が痛くて背中も痛くて、あと、心もすごく痛かった。風邪をひいたみたいにダルくなった。 わたしはお母さんにごめんなさいをしてから、家を飛び出した。なんだかわたしの家じゃないみたいな気がして、とても怖くなった。お母さんがお母さんじゃないみたいに思えて、すごく怖かった。 わたしはマンションの部屋を出ると、そのまま屋上まで走った。わたしは空を見るのが好きなので、いつも屋上に行く。お母さんや大人の人は、危ないから行ってはいけませんと言うけれど、わたしはその約束を破って屋上に行く。だって、大好きだから。 空は雲ひとつない青空で、なんだか生きてるって気がした。とても気持ちがよかった。 わたしは大きく深呼吸をして、フェンスに近寄った。背の低いフェンスだったから、わたしはまたいで、外に出た。一歩前に出ると、地面に落ちてしまうようなバランス。 すごくドキドキして気持ちよかった。 こんなに気持ちいいのに、涙が出た。それは止まらなかった。 声を出そうにも出なかったから、ずっと黙って泣いた。 ---------------------[End of Page 166]--------------------- 今までずっと忘れていた子供の頃《ころ》の空想が目の前に広がる。もしかしたらわたしは空を飛べるんじゃないかな、とか、そういう感じのこと。 だけどね、それは子供だけが考えるばかげたことなの。 もう子供じゃないわたしは考えてはいけないことなの。 だからわたしはどこにも飛んでいくことなんてできない。 生きている限り、ずっとここで生きていかなくちゃならない。 強い風が何度も吹いた。わたしは落とされないように、背後にあるフェンスをギュッって握った。 その時、不思議なことが起こった。 空から光が降ってきた。 雪の結晶みたいな輝きは、わたしの目の前でフワフワと浮かぶと、その眩《まぶし》さを強める。 目を開けていることすらできなくなって、わたしはどうしていいのか困ってしまった。 真っ白な光がわたしを包み込んだ』 ---------------------[End of Page 167]--------------------- 第五章間引け、メメ! とある朝。神山《かみやま》家の庭にて、メメはこの特殊な朝顔を前にしてどうしたものかと考えていた。 驚きはしない。うろたえもしない。ただ、この朝顔に、どう言った言葉をかけてやればいいのかまったく見当もつかないでいたのだ。 とりあえず彼女はゾウさんのジョウロの中に水をたっぷり入れると、自分の背丈と同じぐらいに伸びた朝顔に向かってそれを傾けた。 「あばばばば!ダメっす!メメさん、ダメっすよ!顔は!顔は!」 朝顔は人間で言うと首の部分にあたるツルを左右に動かし、必死でメメに言う。 「冷たいっすよ。なにしてんすか。水を貰《もら》えるのは確かに嬉《うれ》しいっす。でも、顔にビシャビシャかけるのは酷《ひど》いっすよ。ストローかなんかで飲ましてくださいよ」 この贅沢《ぜいたく》な朝顔に対し、彼女は一旦《いつたん》家の中に戻ると、台所の引き出しからストローを持ってきてジョウロの中に挿してやる。 「うっす。申し訳ないっす。いただきますっ」 そう言って、朝顔はストローの先端をくわえると、チュルチュルとジョウロの中の水を ---------------------[End of Page 168]--------------------- 器用に飲み始めた。 さて、これからどうしたものだろう。メメは彼が水を飲む姿を見ながら、またしても途方に暮れるのだった。 あの巨大な種が空から降って一週間。申し訳程度にしかhに埋まってなかったにもかかわらず、種は見事に発芽した。ボーリング玉ぐらいの大きさの種のから、一本の太い芽が出ると、あっという間に地面に刺してあった枝に巻きついた。 それから数日、朝顔のツボミはヒマワリほどの大きさになって彼女の前に姿を現した。 いつこの花は咲くんだろう。ウキウキしながら朝顔の様子を見に庭に出るのが、毎朝のメメの習慣になっている。 そして花は咲いた。 「どうも、草薙《くさなぎ》っす」 そう朝顔は言った。 「草薙……くん?」 メメは答えるQ ようやく咲いた朝顔の中心には、顔があった。それはそれは、どこからどう見ても顔であった。草薙くんの顔は人間のようにリアルな造形ではなく、簡単な点と線で構成された、いかにも漫画にでも出てきそうな感じだった。 ---------------------[End of Page 169]--------------------- 「メメさん、っすよね?僕、めでたく咲いてよかったっす.、ありがとうございます」 「おめでとうございます」 草薙《くさなぎ》くんが頭(花)を下げるので、メメも反射的におじぎで返す。 なんなんだろう。どうして花の中心に顔がついているのだろう。そう思ったが、そもそもの種が常識外れに巨大なものなのである。こんなことが起こっても不思議ではない。 「草薙くんは……なに?」 「朝顔っす!」 メメの切実な質問も、草薙くんの前では無意味だった。確かに種から発芽し、ツルを伸ばし、花を咲かせた。彼の花びらは、水彩で描いたような美しい紫色をしている。 朝顔だと言われたら返す言葉もない。しかし、多くの朝顔は顔などない。そもそも、植物は会話などしないのだ。 「そうじゃなくて。その、なんていうか。なに?」 「朝顔っす!」 「わかってる」 「元気な朝顔っす!」 「わかってる」 わからない。なんなんだ。なんで朝顔なのに顔があるのだろう?そして、なぜ「草薙」 ---------------------[End of Page 170]--------------------- くん?やっぱり植物だから「草」なのだろうか。じゃあ「薙」はなんなのだ。 考えても少女の小さな頭では処理しきれない。もちろん大人の大きな頭でもこの問題は非常に困難である。なにせ草薙《くさなぎ》くんなのだ。朝顔のくせに。 「とりあえず僕、ノドが乾いたっす!メメさん、水が飲みたいっす!」 そう言われて拒絶する理由はない。メメはゾウさんのジョウロに水を汲み、彼の顔にドボドボとかけた。それが朝顔に対する礼儀というものだろう。しかし、草薙くんは、その小さなシャワーにより溺《おぼ》れそうになった。その結果が、さきほどの会話である。 「プハー!やっぱ水って美味しいっすね!」 能天気な感想を述べる草薙くんを前に、メメは言葉をなくす。さて、これからこのお喋《しやべ》りな朝顔をどうしたものだろうか。 「そうだ」 ひとまずメメは、以前美佐《みさ》に言われたことを思い出す。こんなこともあろうかと、ポケットに忍ばせておいたハサミを取り出し、草薙くんのツルにそっと伸ばした。 「わあああ!メメさん、なにするんすか!」 「間引き」 「間引きじゃなくて!それは、たくさん芽がある時にして欲しいっす!今は僕だけじゃないっすか1」 ---------------------[End of Page 171]--------------------- 確かに美佐や久美子《くみニ》にも同じようなことを言われた気がする。しかし、彼女が見たいのは小さくて可憐《かれん》な朝顔なのだ。水をストローでチュウチュウするような、常識の通用しない朝顔などに用はない。やっぱり、と思いハサミをそっと彼に近づける。 「だから!なにコッソリしようとしてるんすか!」 「間引き」 「間引かないで!間引かないで!」 あまり騒がれてしまっては近所迷惑だ。仕方なくメメはハサミをポケットにしまった。 「ふう。驚かさないでくださいよ。そもそも、なんでハサミなんて持ってんすか」 「こんなこともあるかと……」 「こんなことって、朝顔に顔があるってことっすか?普通はそんなこと思いませんよ。 だって、僕だってまさか朝顔になるとは思ってもみなかったっすもん」 どうやら草薙くん自身も、朝顔に顔があることを普通だとは思っていないらしい。 よし、よかった、本人も認めているではないか.、そっとハサミを取り出すメメ。 「わああ!間引かないで!間引かないで!」 とうとう彼はヒンヒンと泣き出してしまった。泣かれては仕方ない.、ここはちと強引にでもバッサリといってしまおうかと思っていたメメであったが、間引きを中止することにする。 ---------------------[End of Page 172]--------------------- 「なんで朝顔なの?草薙《くさなぎ》くんは」 「さあ?わかんないっす。僕も気がついたら朝顔だったもんで.、えへへ」 なぜ照れる。頬をうっすらと赤く染める草薙くん。 「あ……」 彼はそう言うと、急に目を閉じた。さっきまでの元気が嘘《うそ》だったかのように、無口になる。どうしたのだろうか。ウドンコ病だろうか。さっさと枯れてしまえばいいのに。 「どうしたの?」 「僕、そろそろ眠るっす。どうやら起きていられるのは、少しの間だけみたいっす。また明日になったらお水ください。その時は元気に話せると思うっす」 元気になってしまうのか。いっそこのままでいてくれればいいのに。 草薙くんは開いてた花びらを閉じると、風船がしぼむように小さくなって言った。 その隙《すき》をつき、そっとポケットからハサミを取り出すメメ。 「間引かないで。間引かないで」 閉じたツボミの中から、くぐもった声で草薙くんが言うのを聞いて、彼女は仕方なくハサミをしまうのだった。 「朝顔?」 背後からの声に振り返ると、そこにはアディダスのジャージのセットアップを着た少女 ---------------------[End of Page 173]--------------------- が立っていた。靴底にエアーの入ったランニングシューズを履き、首からタオルをかけている。 朝の冷たい空気の中で、彼女の金髪に近い明るい色の髪の毛は美しく輝いていた。 「あ、ごめんなさい。あたし、朝顔がすごく好きで。勝手にお庭に入ったら悪いかなって思ったんだけどさ……。でも聞えてくるんだもん。朝顔、朝顔って。お譲ちゃん、一人?さっきは男の人の声もしてたみたいだけど」 いきなり遠慮なく話す少女に、メメは体を硬くする。知らない人と話してはいけないとママさんから昌.口われているのもあるし、顔のついた朝顔を見られなくてよかったというのもある。 「それ、枯れてるの?」 彼女はメメの近くまで寄ってくると、朝顔のツボミを指でチョンチョンと突っついた。 「さっきまで、咲いてた……」 メメは少女の体から上がる湯気を、テンコみたいだなあと思いながら見つめる。よほど長時間のランニングをしていたのだろう。鼻の頭にも彼女は大粒の汗を浮かべている。 「さっきまで?おしいな。もうちょっと早くくれば咲いてたトコ見られたんだ」 少女は悲しそうな顔をした。その顔を見ると、なんだかメメは無性に寂しくなった。彼女は笑っていた方がいいのだと直感的に思う。 ---------------------[End of Page 174]--------------------- 「また明日、ちょっと早い時間に来れば、咲いてるところ、見られると思う……」 メメは口をパクパクさせながらそう言った。ジャージ少女は、彼女が不意に大きな声で話し出したことに驚きながらも、嬉《うれ》しそうに頷《うなず》く。 「そっか。じゃあ明日も寄ってみようかな。いいかな?」 「うん」 もうメメはいつものメメに戻っていた。小さな声で答えると、どこか関係のない方へと視線を移す。 「わかった。明日は見られるといいなあ」 彼女はそう言って立ちヒがると、タオルで額の汗を拭《ぬく》った。そして、そのまま両手についた汗もきれいに拭《ふ》き取ると、改めてメメを見つめる。 「あたし、亜矢《あや》。よろしくね。毎朝走ってるから、また声かける」 「亜矢……さん」 「あはは。亜矢でいいよ?」 そう言って彼女は手を差し出す。 メメはつま先立ちすると、その手に自分の手を重ねた。 「メメ」 二人は握手をして、小さく照れ笑いを浮かべてから別れる。 ---------------------[End of Page 175]--------------------- メメは亜矢《あや》が走り去って行く姿が小さくなるまで、門の陰からずっと彼女のことを見ていた。 それにしても、とメメは思う。亜矢が嬉しそうな顔をするのはいいとして、あの朝顔に顔がついていることを知ったら驚くだろうか。それとも「わあ、珍しい!」と喜んでくれるだろうか。 「あう……」 彼女はガックリと肩を落とし、玄関から家の中へと入って行った。 「はいはいはーい、たーんとお食べなさいなー、テンコとチョロ美が作った朝ゴハンだからねー」 ママさんはゴハンを飲み込まずに食べながら、食卓に集まる家族に言った。 流し台に一番近い席にテンコと久美子《くみこ》が座り、誰《だれ》かが用事を言うとすぐに立ち上がる。 美佐《みさ》は新聞を読みながら牛乳をズルズルと飲み、ヨウジで歯をいじっていた。もちろん、いつもと変わらない下着姿である。メメは草薙《くさなぎ》くんや亜矢のことなどまったくなかったかのように、冷静にパクパクと目玉焼きを食べている。佐間太郎《さまたろう》は、エチケット袋の一件を美佐は知っているのだろうかとドキドキしながら、空っぽになった茶碗《ちやわん》を手に持った。 「あ、神山《かみやま》くん、お代わり?たーんと食べてね」 ---------------------[End of Page 176]--------------------- 「佐間太郎、あんま食べ過ぎるとスグルみたいになるわよ、スグルみたいに」 ほぼ同時に久美子《くみニ》とテンコが言う。二人は顔を見合わせ、えへへと笑った。 たぶんきっと、このまま素直に食事を終えた方が二人の仲をこじらせないだろうと、彼は「ごちそうさま」をする。女ばかりの家族に一人だけ男として住むというのは、これでいてなかなか大変なのである。 「お兄ちゃん」 「なんだ、メメ?」 「三人で、という手もあるわね」 突然のメメの一言に、食卓はシーンとなった。なにがだ、なんのことだ.、 「って、お姉ちゃんが言ってた」 美佐である。また彼女が、なにも知らないメメに心の声を使って余計なことを吹き込んだのだ。それを聞いて怒ったのはママさんだった。 「なによ!三人ってどういうことよ!佐間太郎ちゃん、ママさんと.一人じゃないの俘他《ほか》に誰《だれ》かいるのP三人でなにしようとしてるのP…」 いや、あんたは入ってないだろ、と思いながらも、彼はトラブルになるのを避けるためにさっさと席を立った。テンコもそれに続いたが、久美子はテープルをフキンで拭いてから三畳ルームへと着替えに行った。慌《あわ》てて佐間太郎を追いかけたテンコに比べて彼女が余 ---------------------[End of Page 177]--------------------- 裕を見せたのは、一緒の部屋で眠っている余裕からだろうか。 「もう、美佐《みさ》ちゃんてぱ。メメちゃんに変なこと教えたらダメでしょ?」 「いーじゃない。だって、あの三人見てると面白いんだもんに……」 「なによ!三人て、佐間太郎《さまたろう》ちゃんとテンコちゃんとチョロ美PママさんはPママさんはどこにいるってのよP…わーん、美佐ちゃんがいじめるうー!」 「さ、学校、学校っと……」 ママさんの涙をサラッと受け流すと、彼女もまた部屋へと向かった。 メメは食事を終えると、既に居間に置いてあったカバンを背負って玄関に向かう。 「いってきます」 「わーん!メメちゃん行ってらっしゃーい!ダンプに気をつけて!」 「他の車は?」 「他もー!全《すぺ》ての車やらなんやらに気をつけてi!」 「わかった」 泣きじゃくる女神を撚っておいて家の外へと出ると、そこには二本足で立つ野齢犬がいた。メメは驚かなかったが、最近は変なのが多いなあと思うのであった。空飛ぶブタの貯金箱とか、顔のある花とか、二本足で立つ犬とか。 「あ、どうも。ポチです。美佐さん、いらつしゃいますか?」 ---------------------[End of Page 178]--------------------- ポチは軽く頭を下げると、紳士的な態度でそう言った。二本足で立つ犬ではなかった、二本足で立ち、喋《しやべ》る犬だ。もしかしたら、ものすごく犬っぽい顔の人間かも知れない。 「ええと、美佐さん。神山《かみやま》美佐さんのお宅はコチラですよね?失礼だとは思ったのですが、臭《にお》い、ですか?それを辿《たど》ってやってきたのですが。もし違っていたら失礼、すぐに帰ります」 フッとポチは自嘲《しちよう》気味に笑った。なんか、ムカつく。 「お姉ちゃんは、中です」 「家の中、ですか?どうもありがとうございます。お邪魔してもよろしいですか?」 「たぶん」 「それでは、お手間を取らせてしまいまして」 もう一度ポチは頭を下げると、爪《つめ》をチャカチャカ言わせながら家の中へと入って行った。 まあ、こんな世の中だからどんな犬がいてもおかしくはないだろう。紳士的な犬、別に悪いことはないじゃないか。 メメがテコテコと小学校に向かって歩き始めると、だいぶ遠くから声が聞えた。 「うわあああ!美佐さん!この前の犬が買」 「なに!あんた、なにしてんのー!」 「ラブだぜ。イェイ」 ---------------------[End of Page 179]--------------------- 少し騒がしいけれど、まあいいか、と彼女は思った。ちなみに、紳士的な犬はすぐに女神の吐息を解かれ、真っ当な犬として追い出されたそうである。めでたしめでたし。 メメは学校に着くと、黒板消しで黒板を掃除する。それが彼女のH課になっているのだ。 誰かに強要されているわけではないが、それぐらいのことはしてもいいだろうと考えている。 カバンの中から教科書とノートを取り出し、机の中に入れる。微《かす》かな視線を感じて振り返ると、彼女に告白して逃げ出した男子がこちらを見ていた。 「なに?」 「別に、なんでもねえ」 彼はそう言うと、カンペンの中から数字の書いてあるエンピツを取り出してコロコロと転がし始める。 ガキ……。そう彼女は思った。 教室の後ろの壁には、メメの書いた川柳《せんりゆう》が飾られていた。 『持ちたいなそれヅラですか?聞く勇気』 なんとなく書いたものだが、個性的であるという評価を受けて披露されることになった。 最近の小学校の教師は、個性をなによりも大事にする。メメを誉めると、誰もが同じように川柳を始める。教師はそれを見て、嬉《うれ》しそうに頷《うなず》くのだ。 ---------------------[End of Page 180]--------------------- 「バカみたい……」 ボンヤリとしている内に、その日の授業は全《すべ》て終わってしまった。途中で美佐《みさ》やテンコから、意味のない心の声が何度か届いたのに返事をした以外は、特になにもない一日だった。そして朝とは逆に教科書をカバンに詰め、そのまま家に帰る。 あまり覚えてないが、もしかしたら休み時間に何人かの男子に告白されたかも知れない。 しかし、今の彼女はそれどころではないのだ。今は、草薙《くさなぎ》くんのことで頭がいっぱいなのである。 翌朝、草薙くんに水をあげにいくと、彼はもう目を覚ましていた。 「おはようっす!水、欲しいっす!これがもう、ノドからからっす!」 メメはストローを使って草薙くんに水をあげると、亜矢《あや》のことを少し話した。 「朝顔が好きな女の子?亜矢ちゃんね……」 「うん」 「そうっすか……。なんだか心にひっかかるっすね……」 「どうして?」 「僕が朝顔になる前、朝顔が好きな女の子と関係してたような気がするっす。いや、してないかな。なんだろう。とにかく、ひっかかるっすよ」 ---------------------[End of Page 181]--------------------- 「そうなんだ。まあ飲め」 「まあ飲むっす。ちゅるるるるる」 ストローで水を飲む音に混じって、遠くからジャージの衣擦《きぬず》れの音が聞えてくる。 「あ、亜矢《あや》だよ」 「え?亜矢ちゃん?ほほう」 メメの言う通り、少しすると神山《かみやま》家の庭に彼女が現れた。今日も薄い色の髪の毛が汗で湿っている。 「おはよう、メメちゃん」 「おはよう、亜矢」 「また朝顔、見逃しちゃったね」 「え?」 さっきまで咲いていた草薙《くさなぎ》くんは、いつの間にかツボミになっていた。ストローが地面の上に転がっている。 「あれ……。おかしいな」 「あたし、嫌われてるのかな、朝顔に」 「そんなことない」 「あいつみたいだな……」 ---------------------[End of Page 182]--------------------- それまで笑っていた亜矢の顔が、不意に寂しそうになった。メメは驚いて、あわわとなる。犬が立ってても、朝顔に顔があっても驚かないのに、こういうことでは驚くのだ。 「どうしたの、亜矢」 「え?あ、ううん。あはは、なんでもない。ちょっと、ね」 チ供だと思って隠し事だろうか。メメは彼女に対して不満を感じる。普通ならここで頬《ほお》のひとつでも膨らませるのだが、そこはメメだ。いつもより一回多く瞬《まばた》きをして、不満を表すのであった。誰もわからないけど。 「毎朝走ってるの?」 いつまでも怒っていては仕方ないと、亜矢に聞いてみる。もちろん彼女はメメが怒っていることなど知る由《レホ し》もない。 「え?そうだよ。前はね、体を鍛えるために走ってたんだけどさ。今は違うね」 「今は?」 「今は……心を鍛えるためかな。あはは、なんちゃって」 どうしても笑顔が不自然に思える。やっぱりなにか隠し事をしているのだ。子供だと思ってからに。さらに怒ったメメは、瞬きを激しく繰り返すのだった。 「う……。メメちゃん、なんでイキナリ瞬きをバシバシバシバシしてるの?」 「……ふ」 ---------------------[End of Page 183]--------------------- ふ、じゃなくて。 「じゃ、あたしはランニングの続きするね。そうだメメちゃん、あんまりお水あげちゃダメだよ?お水あげすぎると枯れちゃうから」 「飲みたいって言った時だけあげてるから」 「え?そ、そうなんだ。わかった。じゃあね」 そう言って亜矢《あや》は走り去って言った。 「やい草薙《くさなぎ》くん。なんでしぼむの」 ツボミをチョイチョイと指で突っつきながら、メメは彼を問い詰める。 「う……。わかんないっす。ただ、その、なんでか彼女の顔が見れないっすよ。どうしてだろう。自分でもわかんないっす。ただ、胸が痛いっす」 草薙くんは、ツボミの中からくぐもった声を出して答えた。 「胸ってどこっ─」 「……茎の真ん中辺り?」 「くるぶしは?」 「……根っこ?」 「ふーん」 なんというか、どこまでも不毛な会話である。草薙くんは聞かれてばかりではイカンと、 ---------------------[End of Page 184]--------------------- メメに対して質問をすることにした。どうして朝顔の自分に対して、ここまでナチュラルに対応できるのか、不思議に思っていたのだ。 「メメさんは、なんなんすかね」 「女神」 「め?」 「女神。候補だけど」 女神候補……。イキナリのトンデモ発言が飛び出したものである。だが、彼はそれを聞いて納得した。だから彼女は朝顔が言葉を発しても、顔があっても、そんなに驚かないのだ。こうして冷静でいられるのも、女神候補だからなのだ。 「ちゅーか、女神候補ってなんすか?」 「いろいろ」 「いろいろかあ……」 もしかして、自分は彼女に意地悪されているのではないか。そんなことを考える草薙くんであった。 「女神ってことは、メメさんは幸せに暮らしてるわけっすね」 「……たぶん」 「そうっすか。じゃあ、イキナリ朝顔に生まれた僕の気持ちなんてわからないっす」 ---------------------[End of Page 185]--------------------- 「うん」 「冷静っすね……」 「うん」 僕の気持ちなんてわからない。そう言いつつも、彼は自分がどんな気持ちでいるかも理解していなかった。なにせ、目が覚めたら朝顔だったのだ。どうしてこの家の庭にいるのかもわからない。それに、今までの記憶もない。もちろん生まれたばかりなのだから記憶はないのかもしれないが、亜矢《あや》という名前には聞き覚えがある。 なんだか大事なことを忘れている気がするのだ。それがなにかは思い出せない。 「どうしたもんすかね」 「間引く?」 「いや、それはいいっす」 「……うん」 翌朝、水をあげにいくと草薙《くさなぎ》くんは落ち込んでいた。朝顔に元気があるとか落ち込むとかあるのかと思うが、しおれていたのだ。なんとわかりやすいのだろう。 「どうしたの、草薙くん」 「あ。メメさん。僕、思い出してしまたっす」 「本当?間引く?」 ---------------------[End of Page 186]--------------------- 「だから、それはいいっす……」 メメがストローを差し出しても、彼は水を飲もうとはしなかった。食欲がないのだろうか。それとも太陽の当たりがよくないとかかも知れない。 「僕、好きな人がいたっす」 「好きな人?」 草薙くんの言葉が、不思議とメメの心臓を掴《つか》んだ。日を閉じていなければ耐えられないほどに、それは強く、乱暴に彼女を苦しめる。 「……あうう」 「あれ、メメさん、どうしたっすか?」 「……大丈夫」 あまり大丈夫ではない様子で彼女は答える。草薙くんは慌《あわ》てて誰《たれ》かを呼ほうとしたが、メメは平気だからとそれを止めた。 「胸が苦しい。なんでだろう」 「わかんないっす。病気っすかね?」 「違う。女神だから、病気とかない」 「あ、そっか……」 どんな理屈だ、と思いながらも、彼は納得する。それにしても、こんなに辛《つら》そうなメメ ---------------------[End of Page 187]--------------------- を見るのは初めてだ。救急車とか呼んだ方がいいんじゃないだろうか。と言っても、所詮《しよせん》は朝顔。どうすることもできないのだけれど。 「続けて?」 「え、あ、はい。僕は……人間だったっす。だけど、いろいろあって、朝顔になったっす」 「好きな人、亜矢《あや》でしょ?」 「な!なんすか!なんでわかるっすか!もう!やだなあ!あはっ」 亜矢が来る時だけツボミになるのだ。そんなもの、誰だってわかるに決まっている。しかし、どうして好きな相手が来るというのに、隠れたりするのだろうか。 「それは……。僕は人間の頃《ニろ》から、気が弱くて、隠れてばっかりだったんす。だから今もツボミになっちゃうんだと思うっす。だって、こんな姿で彼女に会っても、なんて言えばいいかわからないっすよ」 「そりゃそうだ」 「う……。それに、亜矢ちゃんは僕のことなんて好きじゃないっす。もっと他《ほか》に好きなやつがいるっすよ」 「いろいろってなにがあったの?教えて?」 「あ……。は、はい」 草薙《くさなぎ》くんは、少しだけ花を閉じながら言った。あまり言いたくないらしい。 ---------------------[End of Page 188]--------------------- 「僕はある夜、亜矢ちゃんの後をつけてたっす。告白したくて、だけどその勇気がなくて……。その時っす。黒いコートを着た男が、彼女に襲いかかたっす。怖くて、声も幽なかったすよ。でも、メメさん。僕は男っすから。助けなくちゃいけないって思ったっす。それで夢中で飛び出して……。気がついたら、男にナイフで刺されてたっす」 「そうなんだ」 「亜矢ちゃんの方を見たかったっす。大丈夫っ・怖くないよって言ってあげたかたっす。 でも、体が動かなくて、震《ふる》えて、意識が朦朧《もうろう》としてきて。それで、口の前が真っ白になって。ああ、僕、死んだんだなあって思ったっす。それから幻聴だと思うんすけど、声が聞えたっす」 「どんな声?」 「どうしたい?これから、どうしたいつ・っていう声っす。意味わかんなかったっすよ..どうしたいって言われてもね。それで僕は、亜矢ちゃんのことが見たいって言ったっす。 これからもずっと、彼女のことを見守っていたいって。恋人になりたいとか、そういうんじゃなくていいんす。ただ、ずっと、亜矢ちゃんのことを見ることができれば、それで満足だって思ったっす。それで気がついたら朝顔になってたっす。目の前にはメメさんがいたっす。なんだか見覚えのある風景だなって思って。そうっす、ここは亜矢ちゃんが毎朝走ってるジョギングコースだったっす。ここからなら亜矢ちゃんのことが見ていられる。 ---------------------[End of Page 189]--------------------- 声は届かないけど、ずっと見守ることができる。そう思ったっす」 メメは、その声はきっとパパさんだと思ったが、口には出さなかった。 「見てるだけで満足なの?それだけいいの?」 「いいっす。僕は、それだけでいいっす。それで、十分なんすよ……」 既に彼は、ほとんどツボミになりかかっている。 「あはは、正義のヒーローになろうとして、朝顔になってしまったっす。なんだか、笑えるっすね」 ツボミの中から、朝露のような液体が落ちた。ぽたり、ぽたり。 「草薙《くさなぎ》くん。朝顔のくせにかわいそう」 メメはそう言って、ストローでツボミをツンツクと突く。 「痛いです」 「草薙くんは悪くないのにね。どうしようか」 「どうもしなくていいっす。僕はただ、彼女のことを眺めていることができれば、それでいいっす」 「眺めてることもできてないけど」 図星を突かれた彼は、そのまま完全にツボミになってしまった。 彼が心を閉ざしたのと同時に、亜矢がやってくる。彼女は草薙くんを見て、残念そうに ---------------------[End of Page 190]--------------------- 眩《つぶや》いた。 「あー。今日もダメかあ……。最後だったのになあ」 「最後?」 メメが聞き返すと、亜矢《あや》は困ったような顔をする。 「走るの、辛くなってきちゃって。いろいろなことが起こり過ぎてね」 「なーに?」 「メメちゃんに言ってもわからないと思うけどなあ」 亜矢が、しまったと思って彼女の方を見ると、案《あんー,’》の定《よう》メメは激しい瞬《まはた》きを繰り返していた。どうせなら普通に怒ってくれた方が、まだわかりやすいというものだ。 「ごめんごめん。ちゃんと言う。メメちゃんはf供じゃないもんね」 「よし」 「メメちゃん。あたしにはね、すごく大好きで、すごく大切な人がいたんだ。だけどその人は、あたしを守るためにケガをしちゃって、それから人が変わってしまったの。それまでも大人しい人だったんだけど、なんだか今は別人みたい。声をかけても返事をしないし、あたしのことだって忘れちゃってるみたい」 さっき言っていた草薙くんの話と同じだ。ただ、もともとの彼が別人になってしまったと言っている。これは、草薙くんの知らない事実なのだろう。 ---------------------[End of Page 191]--------------------- 「あたしは、彼との時間が好きだった。ゆっくりと流れていく毎日が。近づきそうで近づかない距離が。大好きなのはわかってるのに、お互いに口に出さない。言わなくてもわかってるって気がしてたから。でも、今は違う。もう心が通じてないって感じがする」 亜矢は指先で草薙くんのツボミを優しく触った。ほんの少しだけ、彼がうろたえるのがわかる。 「今ね、あたし男子に告白されてるんだ。すごく押しの強い人でさ。だけどね、思うのは、彼がこういうタイプだったらよかったのかなあとか、そんなことばっかり。どうしても彼のことを考えちゃうの。でも、それも終わりにする。きっと、もう彼はあたしのことなんて好きじゃないんだ」 「そんなことないんじゃないかな……」 メメは、全《†べ》ての事情を話してしまおうかとも思った。しかし、今言ったところで信じてはもらえないだろう。草薙くんは亜矢の前では花を咲かせないのだ。 「ううん、そんなことあるよ。彼はもう、他《ほか》の場所を見てる。あたしのことなんて見てない」 「そっか……」 亜矢は大きく伸びをすると、あえてなんでもないふうに言った。 「明日の朝、ね。授業が始まる前に、校舎裏に呼び出されてるの。きっと、また告白され ---------------------[End of Page 192]--------------------- るんだと思う。よっぽど本気なんじゃないかな。そこまであたしのことを想《25も》ってくれてるんだったら、あたしは彼と付き合おうかなって思ってる。好きな人が振り向いてくれないなら、彼と付き合った方が幸せになれるような気がするから」 ツボミがピクンと震《ふる》えるのがわかった。中にいる草薙《くさなぎ》くんは、どんな顔をしているのだろう。 「でも、やっぱり好きな人のことも諦《あきら》められないのね。だからさ、言おうと思ってるんだ。 明日あたし、告白されちゃうよ。それが嫌なら、その場に来てよ。あたしのことを奪ってよ、って。でもきっと、そんなあたしの言葉も、もう彼には届かないんだろうなあ……もし彼が来てくれれば、あたしの気持ちは固まるのに。どんな風が吹いたって平気な心になれるって言うのにね」 「その好きな人って……」 「うん?」 「その人の名前って?」 彼女は、とても大切なものを箱から取り出すように言った。 「草薙くんって言うんだ」 「草薙くん……」 「じゃあね、メメちゃん。明日、草薙くんが来てくれなかったら、もう走るのも止《や》めるね。 ---------------------[End of Page 193]--------------------- メメちゃんに会うこともないと思う。じゃ、また会えたらね」 「ばいばい、亜矢《あや》」 そして亜矢は、いつもより早いぺースで走って行った。 「ねえ、草薙《くさなヤね》くん。聞いた?」 ツボミに向かってメメは声をかける。 「亜矢も、草薙くんのこと好きだって。きっと上手《りつま》くいくよ」 しかし彼は黙《だま》ったままだ。 「明日、一緒に行こう。ちゃんと気持ちを伝えなきゃ」 ツボミは一ミリも動かず、ただ沈黙を続ける。 「そうしよう?」 「メメさん」 ようやく彼は声を出した。とても暗い声だった。 「僕は、望んで朝顔になったのかも知れないっす」 小さなツボミの中で、彼は続ける。 「仲良くなることが怖かったのかも知れないっす。仲良くなってしまって、そこからケンカしたり、嫌いになったりすることが、嫌だったのかも知れないっす。だから僕は、ずっと同じ距離を保つことができる、朝顔になったのかも……」 ---------------------[End of Page 194]--------------------- 「なにそれ?どうして?」 「おやすみなさい」 そう言うと、草薙くんは黙ってしまった。いくらメメが声をかけても、返事はしてくれない。彼女は、胸が痛むのを感じる。どうしてこんなに苦しいんだろう。 人のことだと言うのに、自分のことのように辛い。しかも、こんな辛さを今まで感じたことなどないのだ。 明日、絶対に草薙くんを亜矢の元へ連れていかなければならない。 メメは、運命的にそんなことを感じるのだった。 しかし、草薙くんはいつまでも花を閉ざしたままでいた。 翌日の朝になっても、彼は開くことはなかった。メメはもどかしく思い、指先でツボミを押し広げようとする。しかし、あまり乱暴にしたら落ちてしまいそうで、無理に開花させることもできない。 仕方なくメメは、ストローでツンツンと突きながら、塞《ふさ》ぎこんでいる彼に向かって説得を続けることにした。 「行こう。亜矢のところ、行こう」 「いいっす。僕はもう朝顔っす。人間じゃないっす」 ---------------------[End of Page 195]--------------------- 「後悔するよ?気持ちを伝えないと」 「そんなのメメさんにはわからないっす」 いくら言っても無駄に思えた。それほど彼は頑《かたく》なに心を閉ざしている。 きっと、本当に彼は傷つきたくないだけなのだ。それ以上の理由なんてない。それだけで十分だ。誰《ノオ》からも傷つけられず、誰も傷つけない。人間だった頃《ころ》も、そんな生き方を選んできたのだろう。 「草薙《くさなぎ》くん。ダメだよ、そんなの」 「ダメじゃないっす。人の……今は花っすけど、花の生き方はそれぞれっす。誰にも否定することはできないっす」 「そうかも知れないけど……」 「だから放《ほう》っておいてください。僕は……植物のままでいいっす」 彼の言うこともわかる。だが、どうしても納得がいかなかった。メメには、彼を目覚めさせなくてはいけないという使命感のようなものまで生じているのだ。 「早く行こう。そうしないと、亜矢《あや》は他《ほか》の男の人に……」 「いい加減にしてほしいっす!」 草薙くんは一瞬で花を開かせると、メメに向かって大声で怒鳴った。あまりに突然のことで、彼女は口をポカンと開けた。さっきまでの大人しい彼が嘘のように思える。 ---------------------[End of Page 196]--------------------- 「メメさんは人の気持ちなんてわからないっす!だって女神っす1僕が今までどんな思いをして、どんなふうに生きてきて、どんな寂しい気持ちになったかわからないっすよ!そんな中で僕は今の生き方を選んだっす!もう誰にも心に触れられたくないっす!最初は優しい人も、そのうち冷たくなるっす!最初は好きでいてくれても、そのうちそうじゃなくなるっす!そんなのは嫌っす!だから、だから、もう僕は、一人でツボミの中に閉じこもって生きるっす1」 「草薙くん……」 「なんとか言って欲しいっす!メメさんは悲しい思いをしたことがあるっすかP…やりきれない夜を過ごしたことがあるっすかPわからないなら、黙《だま》っていて欲しいっす!」 「わたしは……わたしは」 草薙くんは強い調子で彼女に問い続けた。 「メメさんは女神なんすよねっ・やっぱり僕の気持ちなんてわかんないっすよ。なんの不自由もなく暮らしてて。それで僕の気持ちなんてわかるわけがないじゃないっすか!」 メメの瞳《ひとみ》の焦点がプレていく。小刻みに黒目が震《ふる》え、収縮する。目を閉じても忘れることのできない強烈な記憶が、それでいて今まで思い出したことのなかった想《おも》い出が、彼女の頭の中に一瞬で広がった。 それはストロボライトのように強い光でメメを揺さぶる。 ---------------------[End of Page 197]--------------------- ★ 『真っ白な光がわたしを包み込む。 穏やかなポカポカが頭のてっぺんからつま先まで染み渡った。 まるで温泉みたいだな、とわたしは感じる。 それともおひさまみたいかも知れない。安心する温度。安心する柔らかさ。 どうしてこんなに心地いいんだろう。どうしてこんなに涙が出るんだろう。 ねえ聞いて、わたしはずっとこの世界にいらない、余計なパズルのピースみたいだって思って生きてきたの。 それでもなんとか、よし、大丈夫、今日も生きてる、って自分に言い聞かせて暮らしてきた。すごくすごく悲しいことばかりだったけれど、とてもイイコトもあった。 だけどそれは一瞬で過ぎていってしまって、また苦しいことばかり。 わたしの体は世界から三ミリぐらい離れてるんじゃないかなと思う。そこに指をひっかけて、少し力をくわえて引っ張るだけで剥《は》がれてしまうんじゃないかなって。 「そんなことないんじゃない?」 誰《だれ》かの声がした。男の人の声。わたしはビックリして目を開ける。 ---------------------[End of Page 198]--------------------- だけど目の前はどこまでも白い世界。確かに誰かの声がしているのに。 「もう一度、やり直そうよ。きみの素敵な瞳《ひとみ》ならできそうだけど?」 そう彼は言った。わたしは戸惑いながらも、なんとか返事をしようとする。 なんだか頭の中がポヤポヤして、たった今の自分さえ曖昧《あいまい》になりそう。 わたしは、どうしてここにいるんだろう。ここはどこなんだろう。 そうだ。わたしはマンションの屋上にいたんだ。そうしたら誰か、知らない男の人の声が聞えてきた。それは鼓膜を振動させる音じゃなくて、もっと心に直接響くものだった。 頭の中に直接語りかけてくるような、とても大げさで、それでいて自然な声。 真っ白い光に包まれたと思ったら、ここもまた真っ白な世界。 だけど、さっきの真っ白とは違う。足元がフワフワしていて、雲の上に立っているみたい。というより、ここは……雲? 「お帰り」 振り返ると、男の人が立っていた。ちょっと怖そうな顔をしたおじさん。 わたしはどうしてここにいるの? 「きみが望んだからここに来たんだよ」 望んだ?わたしはなにを望んだんだろう。なにかお願い事をしたっけ。 「きみはとてもイイコだね」 ---------------------[End of Page 199]--------------------- イイコ?わたしがイイコ?そんなこと誰にも言われたことはない。今まで、お母さんや昔のお父さんにだって言われたことがない。 :::彼には一度だけ言われた。でも彼って誰?思い出せない。 ねえ、あなたはどうしてそんなこと言うの?なんでわたしのことを知っているの?「なんでも知ってるさ。だって、神様だもん」 神様?神様、わたしの想像と違う。もっとおじいさんで、白くて長いお髭《ひげ》があって、それで杖《つえ》をついていて……。 「あはは。それは誰かが作ったものだから」 神様を誰かが作った?神様は元々いるものじゃないの? 「元々いるものだよ。だけどね、その声を聞ける人はとても少ないよ。その存在に気づく人は滅多にいるものじゃないよ」 わたしは神様の声を聞けるようになったの?あう。もしかして、頭がおかしくなったのかも知れない。また先生のところに行かなくちゃ。お薬を貰《もら》わなくちゃ。 「大丈夫。お薬なんて必要ないよ。きみにはもう一度、やり直すことをしてもらう」 やり直すってどういうこと?わたし、もう辛いことは嫌。悲しいことも嫌。 「安心していいよ。さあ、目を閉じて。ゆっくりとでいい。そうするときみは蛋てを静かに忘れていくからね。そして、大人になると全てを思い出す。まずは忘れることから始め ---------------------[End of Page 200]--------------------- よう。もう、少しずつ忘れてるんじゃないかな」 忘れる?わたしはどうなるの?怖いよ。ねえ神様、怖いよ。 「だから怖いことなんてなにもないってば。今日からは、きみのお父さんは僕だよ」 お父さん?. 「パパさん、って呼んでね」 パパさん? パパさんはそう言って笑った。彼の笑顔がなんだかくすぐったくて、全てがどうでもいい気分になった。わたしは彼のことを信じてもいい気になった。 だからわたしは静かに目を閉じた。真っ自い世界にブタをするように。 それから十秒ほど時間が経《た》つと、消えていた音が急に聞え始めた。 今までとは違う、不器用な音たちに周囲を取り囲まれる。すぐに怖くなって目を開けようとするけど、うまくまぶたが動かなかった。ようやく視界が開けると、そこはまた真っ白い世界だった。だけど、さっきとの真っ白とはやっぱり違っている。 鼻をくすぐるミントのような香り。やっぱりここはいつもと同じように病院なんだなって思った。だって、わたしの心臓は胸でも指先でもなく、手首の辺りでドクドク脈を打っているもの。 「元気な赤ちゃんね」 ---------------------[End of Page 201]--------------------- 女の人の声がした。わたしは振り返ろうとしたけれど、上手《辱”ま》く首が動かない.. 「まだ首が座ってないんだから、そんなに動かないの」 彼女はわたしの鼻を、指のお腹でツンツンと押した。すごくいい匂いがした。柔らかくて甘くて、安心する匂いだった。 「名前、どうしようか?」 今度は男の人の声がした。ついさっき聞いた覚えがあるのに、思い出せない。頭をポリポリとかこうとしたけれど、紅葉《もみし》みたいに小さなわたしの手が少し動いただけだった。 わたしは真っ白なバスタオルに包まって、女性の胸に抱かれていた。白分が赤ちゃんになったんだとすぐにわかった。だけど驚きもしなかったし、不安な気持ちにもならなかった。こういうこともあるんだな、って思った。 「ママさん、このこの目を見てごらん」 女性はママさんと言うらしい。彼女はわたしに顔を近づけた。彫刻みたいに整った鼻が、わたしの小さな頬《ほお》の上を滑る。 「いやあ〜ん本当!なんてカワイイおめめなのかしらね、パパさん!」 パパさん。その名前、どこかで聞いたような気がするんだけど、思い出せないや。 「そうだ」 生ぬるいまどろみがわたしのつま先から忍び寄ってくる。眠い。眠いよ。 ---------------------[End of Page 202]--------------------- 「メメちゃんにしよう。おめめのカワイイ、メメちゃん」 メメ。 「そうね、いいんじゃない。アチョi!メメェー!って感じだし」 「どんな感じ?」 二人の意味のわからない会話を、わたしはウトウトしながら聞いていた。すごくおかしかった。こんな人がパパとママなら、幸せに毎日を送れそうな気がする。 「メメちゃん。はじめまして。パパさんとママさんです。しばらくきみのことを預かることにしました。一緒に暮らそうね」 「よろしくね!」 パパさんとママさんが交互にわたしの頬にキスをする。くすぐったい。羽根かなにかでくすぐられてるみたいに気持ちいい。フワフワのキスだった。 「パパさん、メメちゃんオネムみたいよ?」 「本当だ。今までゆっくり眠ることもできなかったんじゃないかな。いいよ、今日からは安心してお眠り。あとでお姉ちゃんとお兄ちゃんも紹介してあげるからね」 すごい。本当だ。わたしには新しいパパとお姉ちゃん。それにママとお兄ちゃんまでできた。お母さんの言ってたことは嘘《うそ》じゃなかったんだ。あれ?お母さんて…:う・ パパさんはわたしの頭を何度か撫《な》でると、首のところまでバスタオルを引き上げた。 ---------------------[End of Page 203]--------------------- それから後《あのニ》のことは覚えていない。 そして、このことをわたしは覚えていない』 ★ 「メメさん!どうして黙《たま》ってるんすか!僕の話、聞いてますかP」 メメは草薙《くさなぎ》くんの声で我に返った。その時には、もう思い出したことを全《すヘ》て忘れていた。 こんなに不思議なこと初めてだ。なんだろう。さっきのはなんだったのだろう。 彼女は、なんとか返事をしようとする。 「わたし……。草薙くん、わたしは」 彼女はスコップで庭の土をイジリながら眩《つぶや》く。胸が痛い。心が苦しい。 「わたしは、わからない。草薙くんの気持ちはわからない。だけど、このままじゃいけないって感じる。どうしてかわからないけど、本当にそう思う。心の底から。だから、わたしのお願いを聞いて?後悔しないように、一緒に行こう?」 メメの瞳《ひとみ》からハッカドロップみたいに大きな涙が落ちた。草薙くんはそれを見てうろたえる。 「そんな、泣いたってダメっす!女の涙は武器って知ってるっすから!」 ---------------------[End of Page 204]--------------------- 「お願い。一緒に行こう?」 どうしてか、涙が溢《あふ》れて止まらなかった。彼女は今まで一度も泣いたことがなった。泣き方を忘れていたのかも知れない。それが今、不意に涙が止まらなくなってしまったのだ。 そうなると、メメの目から落ちる涙は止まることがなかった。 彼女は次第に声をあげて泣き出し、最後には地面に倒れるようにして鳴咽《おえつ》をする。 「メメさん……」 草薙くんはどうすればいいのかわからなかったし、どうしてそこまで彼女が泣いているのかも理解できなかった。女神のくせに、他人の気持ちをわかったつもりになるなんて傲慢《のかも理解できなかった。女神のくせに、他人の気持ちをわかったつもりになるなんて傲《こう》まん》だ。それにきっと、これもお芝居に違いないのだろう。 しかし、メメの涙はとても嘘《うそ》には見えなかった。すごく悲しそうだった。まるで草薙くんの悲しみを本当に体験し、彼女自身が傷を負ってしまっているように見える。 「メメさん・…:わかったっす。僕、行くっす。だから、泣かないでください」 草薙くんは思い切ってそう言ったが、メメの涙はしばらく止まることはなかった。 ようやく小さな女神が泣き止《く》んだ頃《ころ》には、約束の時間は目前に迫っていた。 「草薙くんの学校ってどこ?」 「菊高《きくこロつ》っす」 菊高。嚢葎のことだ。鯨姦やテンコ・潔夷蓼の通う学校・ ---------------------[End of Page 205]--------------------- 「でも、行くってどうすればいいっすか?」 「間引く」 「なんで浮なんで間引くっすか!ひい!」 メメはハサミを取り出すと、草薙《くさなぎ》くんの根元に向かって大きく振り下ろした。 「はひーん!間引かれるっすううううう……。あれ?」 ハサミは彼の根の周辺にある土に突き刺さる。彼女は、スコップの代わりにハサミで土を掘り出した。 「な、なにしてるっすかP」 「草薙くんは、ここにいちゃダメだから、掘るの」 「掘るって!植物っすよ!植物だからいいんすよ!」 「ダメ。人間だから……」 ハサミではもどかしくなったのか、今度は手を使って土を掘り起こし始めた。爪《つめ》の先が汚れ、小さくて細い指は真っ黒になる。 「メメさん、ダメっすよ、ケガしちゃうっすよ」 「いいの。まだ間に合う、きっと」 あまりに真剣な彼女の態度に、草薙くんはなにも言えなくなってしまった。ただ、メメに掘り起こされるままになっている。 ---------------------[End of Page 206]--------------------- 「……メメさん、僕、やっぱり怖いっすよ。だって、こんな姿になって、亜矢《あや》ちゃんになんて説明すれば……」 「全部素直に話せばいいじゃない」 「そんな勇気、僕にはないっす……」 彼の気持ちに反応して、次第に花びらがしぼんでいく。 「しぼまない!」 「で、でも……」 さっきまで完全に開いていた花は、草薙くんの表情を少しずつ隠していった。 「僕、怖いっすよ……。ただ見てるだけでいいっす……」 「お願いだから、しぼまないで……」 メメの指は小さな切り傷でいっぱいになっている。ようやく根の一番下まで掘り起こし、彼女はそれをそっと、傷つけないように取り出した。土に刺さっている枝を抜き、抱えるようにして草薙くんを運ぶ。 「学校にいるから、亜矢は」 「だけど僕……だけど……」 もうなにを言ってもダメだ。彼女と実際に会わせるしかない。メメはそう思い、走り出した。どうしてこんなに、胸が苦しいのだろう。彼女にはそれがまったくわからない。 ---------------------[End of Page 207]--------------------- ただ、気持ちを伝えて欲しかった。草薙《くきなざ》くんに後悔して欲しくなかった。その一心でメメは商店街を走りぬけ、駅を越え、亜矢《あや》の通う菊本高校《きくもヒこうこう》へと向かった。 校門前の坂道は思った以上に傾斜があり、途中で何度もメメは転ぶ。それでも草薙くんだけは傷つけないようにと、自分の体を使って彼を守った。 しかし、そんなメメの気持ちとは裏腹に、草薙くんは完全なツボミに近づいていく。 「草薙くん!起きて!眠ったらダメ!」 「怖いっす……怖いっす。こんな体になって、怖いっす……」 ようやく校門に辿《たど》り着いたメメは、亜矢の言葉を思い出して校舎の裏へと走った。 あそこに行けば、二人がいるはずだ。そこに草薙くんが現れれば、亜矢の気持ちは固まると言っていた。どうしても彼を届けたい。亜矢の元に、届けたい。気持ちを伝えさせてあげたい。これはおっせかいなのだろうか。してはいけないことなのだろうか。 メメの胸の中で、彼はツボミになった。もう、草薙くんの声も顔も確認することはできない。それでも彼女は朝顔を持って亜矢を捜した。 ようやく校舎裏に着いた頃《ころ》には、草薙くんは枯れていた。茶色く変色し、瑞《みずみず》々しかった葉は乾き、茎は折れている。 「どうして……どうして……」 「メメちゃん……」 ---------------------[End of Page 208]--------------------- 顔を上げると、そこには亜矢《あや》がいた。隣には知らない男がいる。次郎だ。 「なんだよコイツ。なんで枯れた朝顔なんて持ってんだよ」 次郎はそう言って、気味悪そうにメメのことを見た。亜矢はそれを無視して、視線の高さをメメに合わせて語りかける。 「どうしたの?枯れちゃったの?」 「……うん」 「あたしの気持ちも枯れそうだよ。あいつ、来なかった。やっぱり、もうあたしのことなんて好きじゃないんだね」 亜矢はメメの頬《ほお》に優しく手を当てた。ドクンドクンと、彼女の鼓動が伝わってくる。 「違う。伝えたいけど、伝えられないだけ……」 メメの手の上で、草薙《くさなぎ》くんはポロポロと崩れ落ちた。地面に落ちた彼は、風に吹かれてバラバラになってしまう。もう、そこに、彼はいなかった。 「亜矢。草薙くんは、亜矢のこと」 「いいのよ、メメちゃん。もういいの。あたしは、そこまで強い女じゃないんだ。そうやって思い込んで、彼のことを待てるほど、強い女じゃない。ズルいのかもね。でも、彼を信じて待つなんて勇気のあることできないよ」 「亜矢……」 ---------------------[End of Page 209]--------------------- メメは亜矢の胸に飛び込んだ。シャンプーと香水が混ざった香りがした。亜矢は、声を出さずに小さく泣いた。ありがとう、って言いながら涙を流した。 メメの涙は枯れていたので、もう泣くことはない。ただ、とても悲しかった。 草薙くんは、どうして枯れてしまったのだろう。もうちょっとだけ、我慢してくれればよかったのに。 「メメちゃん。学校、行かなくちゃでしょ?ほら、小学校に行っておいで」 「…・:……」 彼女は黙《だま》ったまま、唖矢の頬に唇を重ねる。それから、校門に向かって歩き始めた。 指の傷がヒリヒリと痛む。あれ、女神ってケガはしないんじゃなかったっけ、などと思いながら、それを舌で舐《な》めた。鉄の味がする。懐かしい感じ。 校門を幽て、坂道を見下ろす。透明な空気の中を、草薙くんのカケラが舞っているように見えた。それは太陽の光を反射して、キラキラとガラスの破片のように美しく光った。 そのまま歩こうとするが、どうしても最初の一歩が踏み出せない。どうしてだろう。もう亜矢に言いたいことはないはずなのに。心が苦しくて、メメは何気なく振り返った。 すると、校門の陰に一人の男子生徒が立っているのが見えた。 メメは、一度も会ったことがなかったけれど、確信する。 彼は、草薙くんだ。 ---------------------[End of Page 210]--------------------- 「草薙《くさなぎ》くん!」 草薙くんに走りより、制服の裾《すそ》を力いっぱい掴《つか》む。 「亜矢《あや》が、亜矢が他《ぼか》の男の人と!」 何度も何度も引き寄せるが、彼は目を開けたまま眠っているように反応しない。 「どうしてP生きてるんでしょPだったら、なにか言ってよ!」 答えはない。もどかしくなったメメは、小さな拳《こぶし》で彼の足を叩《たた》き始める。 「お願い!起きて!早く!早く!もう、間に合わなくなっちゃう!早くしてよ!」 「僕は……」 「えっ・」 不意に彼は口を開いた。ネンドで作ったみたいな、のっぺりとした声だった。 「僕は……今……どこにいる?」 ゆっくりと草薙くんはしゃがみ、焦点のずれた瞳《ひとみ》をメメに向ける。 「僕は……どこに……いる?」 「草薙くん……」 彼は、枯れてしまったんだろうか。ナイフで刺されたショックで、こっちの世界からどこか遠くの世界へ行ってしまったのだろうか。 ---------------------[End of Page 211]--------------------- 傷つくのが怖くて、遠くにいるのだろうか。 ここにいる彼は、彼の抜け殻なんだろうか。 魂は、朝顔と共に風に吹かれて消えてしまったのだろうか。 「僕は……どこに?僕は……どこ……」 違う。違う。違う。草薙くんは、どこにも行ってなんかいない! 「草薙くんH」 メメは今までの人生で、一番大きな声を出した。象にもクジラにも地球にも負けないほど大きな、世界中の目覚まし時計を集めたような声。 「草薙くん!わたしはここにいるよ!草薙くんも、ここにいるよ!」 彼の瞳が、一瞬だけ光を取り戻しそうになる。しかし、パレットの上で混ぜられた絵の具のように、次第にドス黒く濁っていく。 「ダメ1こっち!」 彼女は手を振り上げ、彼の頬を力いっぱい叩いた。 それは、目の覚めるような一発だったに違いない。 薪《まき》が大きくはぜたような音が響き、パチパチと彼は瞬《まばた》きをした。 「…………メメちゃん?」 「亜矢が待ってるから!」 ---------------------[End of Page 212]--------------------- 「亜矢《あや》……亜矢……亜矢ちゃんがP」 彼は目を大きく見開くと、爆発したように走り出す。メメはその場に座り込むと、どうしていいのかわからなくなった。 自分のしたことは正しかったんだろうか。それとも、彼にとって迷惑だったかも知れない。なんだろう。この複雑な気持ちは。どうして、どうしてこんなに胸が痛むのだろう.「お前、こんなトコでなにやってんだ?」 聞き馴《な》れた声がした。 「あれ、メメちゃんPなに、中学飛ばしてもう高校?優秀だね」 佐間太郎《曳噂ゐ8た魑ろうつ》に続いて、テンコの声もする。 「やだ、手、ケガしてるじゃない?どうしたの?」 「ツバつけとく?ね?」 久美子《くみこ》に美佐《みさ》。彼女の家族の声だ。校門から聞えてきたメメの声に、誰《だれ》もが集まってきたのだった。 「……なんでもない」 メメはそう言った途端、大雨のように泣き出す。 「わあああああ!佐間太郎が泣かした!」 「なんで俺《おれ》P」 ---------------------[End of Page 213]--------------------- それからの草薙《くさなぎ》くんと亜矢《あや》がどうなったのか、メメは知らない。 気が済むまで泣いた後《あと》に「じゃ、学校があるんで」と言って登校したからである。 みんなは彼女になにがあったのか不思議がっていたが、それ以降まったくいつもと変わらない様子で暮らしているので、ま、いっか、ということになった。 それから数日が経った、小学校。 メメは草薙くんのことが心配で心配で仕方なかった。 彼は勇気を出すことができたんだろうか。それとも、また逃げ出してしまったんだろうか。人に気持ちを伝えるということは、とても大変なことだ。それは、自分が傷ついてしまうかも知れないという危険を孕んでいるからである。 メメはゲタ箱で靴を履きながら、ずっと彼と彼女のことを考えた。 こうして時間が経つと、あんな出来事はなかったようにさえ思える。 なんだろう。不思議な気持ち。胸が苦しい。わたしは、どうしてあんなにこだわっていたんだろう。 「なあ、神山《かみやま》」 サッカーシューズを履いた少年が、彼女に声をかけてきた。 「なに?」 ---------------------[End of Page 214]--------------------- 「一緒に帰ろうぜ」 そして沈黙。メメは、どうしようかと迷う。 断ることは簡単だけど、それでいいのだろうか。 「…………嘘《うそ》1今の嘘だよ!あはは、本気にすんなよ神山!冗談だってぱ!なしだってば!」 彼はどうせ断られるだろうと、自分の言葉を誤魔化《ごまか》すことにした。本当のことを言うには勇気がいる。それを嘘にするのは簡単だ。 本当のことを隠すのは卑怯《ひきよう》で意味のないことだとわかってはいたけれど、傷つくのはとても怖い。だから少年は、やっぱり今のなしだとばかりに普段よりも大きく口を開けて笑った。 そもそもメメのような美人の女子に、自分のような男子が話しかけること自体が間違っているのだ。もうこういうことはしないようにしよう。他《ほか》の男子に見つかったら仲間外れにされるかも知れないし、女子に見つかったら笑いの種になってしまう。そんなことを思いながら、彼はガハハと笑った。 しかし、彼女の返事はまったく予想もしないものだった。 「いいよ」 「だから嘘なんだってば!俺、だって、帰ってパオパオチャンネルの再放送見なくちゃ ---------------------[End of Page 215]--------------------- いけないしさ!だから……って、え?」 「いいよ」 メメはそう言って手を差し出す。少年は、目の前で行われていることが現実かどうか判断できないような表情で、その手を握り返そうとした。 が、彼は急いで手を引っ込めてしまう。どうしてだろう。なぜそうしたのかはメメにも、彼自身にもわからない。なんとなく怖かったのもあるが、そもそも手を握るなんて恥ずかしくてできやしない。 「じゃあ、帰るぞ、神山《かみやま》1」 「うん」 少年は一緒に帰ろうと言いつつ、メメのことなどまったく気にしないふうに歩き出した。 メメは、置いて行かれないように歩調を速めて彼の後をついていく。 彼女は傷だらけの少年の足を眺めながら、黙《だま》ったまま歩き続ける。 胸が痛いと感じる。心が苦しいと感じる。 こういう不思議な気持ちが、生きていることなのかなと思った。 ---------------------[End of Page 216]--------------------- エビローグシャボン玉ホリデー 神山《かみやま》家、パパさんとママさんの寝室となっている和室には秘密がある。 秘密と言っても家族の全員が知っていることなのでこれっぽちも秘密ではないが、一応秘密になっているのだから秘密なのです。秘密。 メメはその秘密のある、和室の押入れの前に立っていた。フスマをスライドさせると、そこには一枚のドアが壁に立てかけてある。 ドアには一枚の張り紙がセロテープで止めてあった。〜天国への扉(緊急時以外は使用禁止。あと、このドアのことはわりと秘密)〜と、マジックペンで書いてあるのがわかる(ほら、秘密って書いてある)。 彼女が迷うことなくドアを開けると、ドアの向こうは雲の上の世界「天国」だった。メメは以前にもこの扉を使って、天国にあるパパさんの仕事場「神様の書斎」に来たことが何度かある。しかし、今回は妙に懐かしいような気分になりながら雲の上を歩いた。その懐かしさがどこからきているものなのかはわからない。ただ、砂糖が空気に混ぜてあるような甘くて、不思議と幸せな気持ちになった。 しばらくトランポリンの上を歩くような足取りで雲の上を進む、さきほどの秘密の扉と ---------------------[End of Page 217]--------------------- 同じタイプのドアがポッカリと浮かんでいた。 これを開ければ、パパさんが仕事をしているはずである。メメは彼に邪魔にならないかと心配しながら、覗《のぞ》き込むようにしてドアを開けた。 「ん?メメ様じゃないですか」 彼女を見つけたのはパパさんではなく、羽の生えたブタの貯金箱だった。 「パパは?」 「もうすぐここに戻っていらっしゃいます。そこでお待ちになってください.、わたしは仕事がありますので失礼させて頂きます」 貯金箱はフワフワと空を飛びながら窓から幽て行った。 「ばいばい」 小さく手を振り彼を見送ると、彼女は部屋の中をグルリと見回す。いつ来てもここは不思議な空間だ。四方の壁を本棚が囲み、ギッシリと分厚い本が収納されている。 背表紙のタイトルをメメは読むことはできないが、それは小学生の習っていない漢字で記されているからではない。誰も知らない、神様だけが読むことのできる文字で書いてあるからだ。 部屋の中心には立派なイスと机が置いてある.、イスは背もたれが大きく、座ったら体ごと埋まってしまうのではないかと思うほどに柔らかそうだ。 ---------------------[End of Page 218]--------------------- 机の上には地球儀が浮いている。最初に見た時、風船かなにかだとメメは勘違いをした.しかし、よく見てみれば地球儀の上では綿菓子のような雲が浮かび、水溜《たま》りほどの海が波打っていた。これは地球儀ではなく、地球そのものなのだ。 メメはフカフカのイスに座って、パパさんが戻ってくるのを待つごとにする。 もしかしたら、勝手にきたことを怒られるかも知れない。張り紙が以前と変わっていたから、もう何度か彼女がやってきたことを踏まえての警告とも取れる。 「怒られたら……困る」 そう眩《つぶや》きながら、床につかない足をプラプラと揺らし続けた。 「いやーん!メメちゃん、いらっしゃーい!」 退屈しかけた頃《ニろ》、ドアが開いてパパさんがやってきた。冬だと言うのに、アロハシャツにハーフパンツ、ビーチサンダルという服装である。常夏《とこなつ》なのか、天国は。 「なになになに、どちたのどちたの?メメちゃん、ココに来るってことは、なにか聞きたいことがあるんじゃないの?だってそれ以外の時には来てくれないもんねえ。パパさん寂しいの。寂しいよお」 彼はメメを抱き上げ、頬擦《ほおず》りしながら泣いた振りをした。張り紙に「緊急時以外は使用禁止」と書いた本人がこの調子であるから、怒られることはないだろう。 「うん、聞きたいことがあるの」 ---------------------[End of Page 219]--------------------- 「どうしたんだい、言ってごらん。さんはいっ」 パパさんは毛先の長いジュータンの上にメメを立たせ、彼女の質問を待った。 「ね、凡パパ。勇気って、なに?なんとなくわかるけど、どういうことなの?」 「勇気?勇気ねえ……」 彼は鼻の頭をポリポリとかいた後《あと》に、教育テレビのお兄さんのような口調で言った。 「勇気っていうのは、本当のことを恐れずに行うことだよ」 「それが勇気?」 「そう、勇気。自分に嘘《うそ》をつかないこと。ところでメメちゃん。これ、する?」 パパさんの言葉に難しそうな顔をしていたメメだったが、彼の差し出したストローと石けん水に笑顔を浮かべた。きっと、彼女が来ているとブタの貯金箱から聞き、これらを用意してきたのだろう。 「する!する!シャボン玉する!」 「お部屋の中でするとダメだから、窓から顔だして空に向かってしようかつ・」 「うん!」 勇気のことなどすっかり忘れ、返事をするなり彼女は窓際《ぎわ》に走り出した。しかし、ストローをくわえて外を見た途端、メメの大きな日が悲しそうに閉じられる。 「パパ。みんな、怖い顔してる……」 ---------------------[End of Page 220]--------------------- 「え?なんだって?」 パパさんはメメの言ったことが信じられず、驚いて窓際《きわ》へと近づく。彼女と同じように窓の外を見るが、そこに広がる風景はいつもと変わらないものだった。 ドを見れば地面の代わりに真っ白い雲が続き、それ以外はどこまでも広がる青空。 まさかメメは、ここから下にいる人間たちの顔が見えるとでも言うのだろうか。 神様のパパさんですら見えないものが、メメには見えているのだろうか。 「メメちゃん、もう一度言ってくれる?見えるのかい、ここから」 彼女は手で双眼鏡の形を作って、地面に広がる雲をジッと見た。 「うん。歩いてる。人がたくさん。だけどみんな笑ってない。すごくつまんなそうな顔をしてる人と、怖い顔をしてる人が同じくらいいる」 パパさんはメメの肩をそっと抱いた。彼女には他《ほか》の誰《だれ》にも見えないものが見えるみたいである。それが彼女だけにしか見えず、誰にも確かめることができないとしても、それを信じるのは当たり前だと彼は思った。 「みんな怒ってるみたいにも見える。ねえパパ、どういうこと?」 メメに言われ、パパさんはストローの端を歯で噛《か》みながら少し考える。 「世の中にはね、辛《つら》いことがたくさんあるんだ。そうすると怖い顔になってしまうんだよ。 つまんなそうな顔をしている人は、それはつまらないんじゃないんだ。なんてことないよ、 ---------------------[End of Page 221]--------------------- って顔を作ってるんだ。だから世の中はね、なんてことない顔をしている人で溢《あふ》れてるんだよ。怖い顔をじている人はね、なんてことのない人が羨《うらや》ましくなるんだ。自分が悲しい、辛い、苦しい、そう思う時はね、他の人のことが憎く感じてしまうものなんだよ」 だけど。 「だけど本当はそうじゃない。誰だってとても辛い思いや悲しい経験をしてるんだ。なんてことない顔をしている人だって、どんな顔をしている人だって、それこそ、誰一人残らずね。それでもなんとか生きてるんだ。人間は、それでも生き続けようと考える生き物なんだ」 「でも、人間は生きていたら楽しいことよりも悲しいことの方が多いのに。それでも生きてるの?」 「そうだよ。悲しいことは無駄なことじゃない。辛いことだって、必要なんだ。そうすることで、他人の痛みをわかってあげられる人間になる。優しい人間になれるんだ」 「そっか……」 メメは納得のいかない様子でストローをくわえる。小さなシャボンの玉がプックリと先端で膨れた。七色の表面が、虹のように輝く。 「自分の方が辛い。あの人の不幸は自分よりずっと軽いなんて考えたらいけないよ。その人が一番辛いって考えていることが、その人の世界で一番不幸な出来事になるんだから」 ---------------------[End of Page 222]--------------------- 「虫歯もっ・」 「そう。虫歯で苦しんでいる人も、お腹が空いて苦しんでる人も、寂しくてやりきれない人も、恋人に裏切られた人も、みんな辛《つら》いんだ。だから、あの人の痛みなんて自分に比べたらマシだ、なんて軽々しく思ったりしてはいけない。辛さは比べるものじゃないよ」 「どうするものなの?」 「辛さは痛み。痛みは他人と共有するものなんだ。自分一人で背負うものじゃない。それはどこにでも存在しているものだからね。すぐに襲ってくる。人間は弱い生き物だから、みんなで協力して生きていくんだ」 「うーん……。やっぱりわかんないや」 「メメちゃんにはまだわからないかも知れない。でもね、いつかきっと、感じることができると思うよ。ああそうか、そういうことなんだ、って。そうした時に、メメちゃんはきっとたくさんの言葉でいろいろな人にお話をすることになると思う」 「なんで?」 「さあ?んじゃま、デッカイの膨らましますか!」 パパさんは思い切り空気を吸い込むと、ストローの中に勢いよく息を吹き込み始めた。 シャボン玉はどんどん大きくなり、野球のボールぐらいだったものがサッカボールほど、それがメメの身長を超え、ついにはパパさんよりも大きく膨らんだ。 ---------------------[End of Page 223]--------------------- 「すごい!おっきい!」 顔を真っ赤にしながらパパさんはメメの声に応えて笑った。 ストローから離れた巨大なシャボン玉は、雲の上を越えて空に飛び出す。 エナメルのような輝きを保ちながら、それはどこまでも飛んでいくかに思えた。しかし、しばらく漂った後に、あっさりと音もなく弾《噂ゆr}》けてしまう。 「あ!シャボン……」 メメは残念そうにパパさんを見上げる。 「大丈夫、また膨らませばいいから。何度だってね」 「うん!」 「今度はメメちゃんの番だよ」 メメはストローにたっぷり石けん水をつけると、細いストローの中に空気を送り込む。 その途端、彼女は驚いて唇をストローから外しそうになってしまった。 いくら空気を送っても、向こうから押し返されるような感じがしたのだ。 「思い切りやってごらん、割れたりしないから」 パパさんに言われて、メメは息を吹ぎ返した。 シャボン玉は、どこまでも大きく大きく膨らみ続ける。次第に楽しい気分になってくるのをメメは感じた。その時、彼女の瀞職になにかが映った。監知樹のように隙瞬で・風のよ ---------------------[End of Page 224]--------------------- うに捉《レヒら》えどころのないなにか。 しかし、ハッキリとメメはその姿を心で見ることができた。 「笑ってる人がいる……」 膨らみ続けるシャボンの向こうに、二人の人間の姿が見えたのだ。 それは見たことのある少年と、見たことのある少女の、見たことのない笑顔だった. ---------------------[End of Page 225]--------------------- あとがき どもです、桑島です。神様家族4、いかがでしたでしょうか。などと言いつつ、今回は本編を執筆する前に「あとがき」を書くという新手法でお送りしております。 理由はあれですね、いつも「ご迷惑をおかけしました」って書いてるんで、そういうご迷惑をおかけする前に書いてしまおうという発想の転換です。わはは、まいったか。それよりも、最初から迷惑をかけないようにすればいいというお声が聞こえてきそうですが、かけちゃうものは仕方ないのです。だからもう、ね、こういう感じなのです。 さてさて、今回は番外編、短編集ということで書いたつもり(というか、書く予定)ですが、いかがでしたでしょうか。タイトルも「発育少女」とか「桃色貯金」のような四文字シリーズではなくなっていると思います。ちなみに、神様家族5からは元の四文字シリーズに戻ります。出るチャンスがあればですけれども。はい。 内容は神様家族の女性キャラ、それぞれにスポットを当てた感じになってるはず。 わはは、書く前にあとがき書けば謝らなくて済むと思ったのですが、むしろ書くことなくて困りますね。これは嬉しい誤算です。嬉しくないですけど。 ---------------------[End of Page 226]--------------------- ええと、たぶんなんですけど、今回はただのショートストーリーに留《とど》まらず、それが繋がって一本のお話になっているといいなと思っています。さらに、あの人のあんなことまでわかってしまうという、そういう意味深《しん》な内容でお送りする予定です。まだ全然決まってないですけど。えーと。あとあれです。なんだ。こー、爆発とか。いや、爆発はないな。 その、お色気とか。あ、お色気はあるかもしれないな。とか、そういう感じなのです!というわけで、今回はご迷惑をおかけしなかったはずのMF文庫編集部のM様とK様、そして素敵なイラストを描いてくださるヤスダスズヒトさん、さらに三畳イラストを描いてくれるような気がするメメさんなどに感謝を表しつつ、あとがきを終わるのでした。 それではみなさん、またどこかでお会い致しましょう。僕はこれから本編の執筆に入るのでした。 桑島由一※編集注Hこんなことを書きつつ、今回もまた迷惑かけられました。 ---------------------[End of Page 227]--------------------- …を…付 …想…繍 …感…集 …こす…5鵬係菌譲晶漁 …レお…東万陣…ン…ア …ア…西 …フ…メ ---------------------[End of Page 228]---------------------